西本願寺飛雲閣・西本願寺見どころ

西本願寺飛雲閣

●西本願寺飛雲閣は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財、1951年(平成26年)6月9日に国宝に指定されました。
●西本願寺飛雲閣は1573年(天正元年)~1614年(慶長19年)に建立されたと言われています。また西本願寺飛雲閣は安土桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が造営した聚楽第(じゅらくてい)の一部で、寛永年間(1624年~1644年)に移されたとも言われています。江戸時代後期の1795年(寛政7年)に茶人で、藪内流6代・竹陰紹智(ちくいんじょうち・藪内竹陰)らが憶昔席(いくじゃくのせき)を増築しました。2017年(平成29年)7月から修復工事が始まり、2020年(令和2年)4月に完了しました。
聚楽第は安土桃山時代の1585年(天正13年)に関白に就任した豊臣秀吉(とよとみひでよし)が政庁兼邸宅とする為、1586年(天正14年)2月に着工し、翌1587年(天正15年)9月に完成し、豊臣秀吉が二条第(妙顕寺城(みょうけんじ))から移りました。1588年(天正16年)に第107代・後陽成天皇が行幸しました。1591年(天正19年)12月に豊臣秀吉が甥・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に氏長者(家督)と関白職を譲ると豊臣秀次の邸宅になり、翌1592年(天正20年)1月にも第107代・後陽成天皇が再度行幸しました。1593年(文禄2年)8月に豊臣秀頼(とよとみひでより)が誕生し、1595年(文禄4年)7月に豊臣秀吉が豊臣秀次を高野山に追放して切腹し、翌8月から豊臣秀吉が聚楽第を徹底的に破却し、建物の一部が伏見城に移されました。
豊臣秀吉は1537年(天文6年)3月17日(旧暦2月6日)に織田信長(おだのぶなが)の足軽(百姓)・木下弥右衛門(きのしたやえもん)と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(仲・天瑞院(てんずいいん))との間に生まれました。1554年(天文23年)頃から織田信長に仕え、1561年(永禄4年)に浅野長勝(あさのながかつ)の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後戦功を重ねて頭角を現し、1582年(天正10年)に明智光秀(あけちみつひで)が織田信長に謀反を起こした本能寺の変(ほんのうじのへん)後、山崎の戦い(やまざきのたたかい)で明智光秀を破り、四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げ、1598年(慶長3年)9月18日(旧暦8月18日)に62歳で伏見城内で亡くなりました。なお豊臣秀吉は1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。
●西本願寺飛雲閣は三層楼閣建築のこけら葺(こけらぶき)です。西本願寺飛雲閣は北面・南面約25.8メートル、東面約11.8メートル、西面約12.5メートルです。1階に柳の間(招賢殿(しょうけんでん))・八景の間・船入の間・上段間・上々段・茶室(憶昔席(いくじゃくのせき))・台所などがあり、2階に三十六歌仙が描かれた歌仙の間・回縁などがあり、3階に摘星楼(てきせいろう)があります。西本願寺飛雲閣は各層の屋根に唐破風(からはふ)・千鳥破風(ちどりはふ)・入母屋破風(いりもやはふ)・軒唐破風(のきからはふ)などの変化をつけ、異形の窓を用い、建物の木割が繊細で、左右対称を破った軽快な意匠になっています。
一般的に楼閣建築は重層の建物です。古代中国では楼が2階建て以上の建物、閣が四方を眺めることできる見晴しのいい高層の建物を意味しています。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。飛鳥時代(593年~709年)に建立された法隆寺(ほうりゅうじ)の五重塔(国宝)の屋根にも用いられています。
西本願寺見どころ

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