西本願寺唐門・西本願寺見どころ

西本願寺唐門

●西本願寺唐門は1898年(明治31年)12月28日に国の重要文化財、1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定されました。
●西本願寺唐門は1573年(天正元年)~1614年(慶長19年)に建立されたと言われています。また西本願寺唐門は安土桃山時代に伏見城に建ってられ、1618年(元和4年)に伏見城から移されたとも言われています。唐門は西本願寺内で最古の建物とも言われています。2018年(平成30年)6月から修復工事が開始され、2022年(令和4年)3月に完了する予定です。ちなみに西本願寺唐門は1983年(昭和58年)以来閉じられていたが、修復工事に伴って、2017年(平成29年)5月21日に34年振りに一日限りで開門されました。
一般的に唐門は切妻造(きりづまづくり)・入母屋造(いりもやづくり)の屋根に丸みをつけて造形した唐破風(からはふ)がついた門です。唐門は豪華な彫刻が施されたものは向唐門(むこうからもん)、唐破風が妻にある簡素なものは平唐門 (ひららもん)と言われています。唐門は平安時代後期に見られるようになり、桃山時代が隆盛期と言われています。
伏見城は安土桃山時代の1592年(天正20年)に豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に関白職を譲った豊臣秀吉(とよとみひでよし)が平安時代から観月の名所であった伏見指月(しげつ)に隠居所として隠居屋敷を建設したのが始まりです。1593年(文禄2年)に豊臣秀頼(とよとみひでより)が誕生し、大坂城を豊臣秀頼に譲る為に隠居屋敷の大規模な改修が始まり、1594年(文禄3年)に城下町の整備も行われ、いずれも五奉行であった浅野長政(あさのながまさ)・前田玄以(まえだげんい)・増田長盛(ましたながもり)などの家臣団屋敷や大名屋敷がありました。しかし1596年(慶長元年)の慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)によって建物が倒壊しました。その後北約500メートルにある木幡山(こばたやま)に場所を移して築城が再開され、1597年(慶長2年)5月に天守閣が完成し、豊臣秀吉が移ってきたが、1598年(慶長3年)8月18日に豊臣秀吉が伏見城で亡くなりました。1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)が起こり、1601年(慶長6年)3月に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が伏見城に入城し、二条城の築城と伏見城の再建に着手しました。1619年(元和5年)から一国一城令によって廃城が決定し、1625年(寛永2年)に破却が完了しました。
●西本願寺唐門は高さ約8.67メートル・幅約5.37メートル・奥行き約4.4メートルの四脚門で、前後唐破風造(からはふづくり)・側面入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。西本願寺唐門は雲と麒麟(きりん)・牡丹(ぼたん)と唐獅子(からじし)・竹と虎などの彩色彫刻が施され、その彫刻の見事さに日が暮れるのを忘れることから日暮らし門(日暮門)とも言われています。
唐破風は弓形のように中央部を丸みをつけ、両端が反りかえった曲線状に造形した破風です。軒唐破風は屋根本体の軒先を丸みを帯びた造形した破風です。向唐破風は屋根本体とは別に出窓のように造形した破風です。なお破風は切妻造(きりづまづくり)・入母屋造(いりもやづくり)の屋根の妻の三角形の部分です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
西本願寺見どころ

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