西本願寺北能舞台・西本願寺見どころ

西本願寺北能舞台

●西本願寺北能舞台は1908年(明治41年)8月1日に国の重要文化財、1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定されました。
●西本願寺北能舞台は飾り板である懸魚(げぎょ)に「天正九年(1581年)」の銘があったとされ、安土桃山時代の1581年(天正9年)に建立されたとも言われています。また西本願寺北能舞台は代々西本願寺の坊官(ぼうかん)を務めた下間家(しもつまし)が江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)から拝領し、その後下間家から西本願寺に寄進されたとも言われています。北能舞台は日本最古の舞台とも言われています。
一般的に能舞台は能などを奉納する堂塔です。
能は奈良時代に大陸から伝わった曲技(きょくぎ)・物真似(ものまね)・軽業(かるわざ)など中心とした散楽(さんがく)が起源とも言われています。「続日本紀(しょくにほんぎ)・平安時代初期編纂」には奈良時代の735年(天平7年)に第45代・聖武天皇が唐人による唐(中国)・新羅(朝鮮半島南東部)の音楽の演奏と弄槍(ほこゆけ)の軽業芸を見たことが記されています。平安時代に猿楽(さるがく)と言われ、鎌倉時代に猿楽の能と言われるようになり、能の古い形式である翁(おきな)を上演する座が結成されました。南北朝時代に大和猿楽(やまとさるがく)・近江猿楽(おおみさるがく)が大きな存在になり、奈良・興福寺(こうふくじ)に属した円満井座(えんまいざ)・坂戸座(さかとざ)・外山座(とびざ)・結崎座(ゆうざきざ)の大和猿楽四座が金春流(こんぱるりゅう)・金剛流(こんごう)・宝生流(ほうしょう)・観世流(かんぜ)の基になりました。室町時代に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の庇護により、結崎座の父・観阿弥(かんあみ)と子・世阿弥(ぜあみ)の親子が能を大成させました。江戸時代中期に様式がほぼ完成したと言われています。能は演じる立方(たちかた)・声楽を謡う地謡方(じうたいかた)・器楽を奏でる囃子方(はやしかた)などで構成されています。なお能は明治維新前までは猿楽と言われていたが、明治維新後は狂言とともに能楽と言われるようになりました。
下間氏は源頼政(みなもとのりまさ)の玄孫・源宗重(みなもとのむねしげ)が初代とされています。源宗重は同族の源頼茂(みなもとのよりもち)が後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇)によって討たれると連座して処刑されることになったが、通り掛かった親鸞聖人が処刑の非を説いて出家させることを条件に助命され、蓮位坊と名乗って弟子になりました。
●西本願寺北能舞台は桁行一間梁間一間で、正面入母屋造(いりもやづくり)・背面切妻造(きりづまづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
西本願寺見どころ

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