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西本願寺黒書院・西本願寺見所(修学旅行・観光)
西本願寺黒書院
●西本願寺黒書院は1913年(大正2年)4月14日に国の重要文化財、1956年(昭和31年)6月28日に国宝に指定されました。
●西本願寺黒書院は江戸時代前期の1657年(明暦3年)に建立されたとも言われています。白書院は公の対面の場に対し、黒書院は内向きの対面や門主の寺務を行う場です。黒書院には一の間・二の間・茶室・鎖の間・広敷などがあり、一の間・二の間・茶室には絵師・狩野探幽(かのうたにゅう)が描いた水墨画があります。黒書院は堅苦しい書院造りではなく、数寄屋(すきや)風に造られています。なお黒書院は通常非公開だが、2012年(平成24年)11月に初公開されました。
一般的に書院は禅宗寺院で、住持(じゅうじ(住持職・住職))の私室のことです。住持(住持職・住職)は寺院を管掌する最高位の僧侶のことです。室町時代以降に武家・公家の邸の居間兼書斎も書院と言うようになりました。なお書院は中国で書庫・書斎を意味し、日本で鎌倉時代に書見(しょけん)したり、学を講ずる場所を意味するようになり、その後客を応接する対面所を言うようになった。
狩野探幽は江戸時代初期の1602年(慶長7年)に狩野永徳(かのうえいとく)の孫、狩野孝信(かのうたかのぶ)の子として京都で生まれました。4歳の時に自ら筆をとって描いたとも言われ、1612年(慶長17年)に江戸に下り、その途中の駿府で江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に謁し、1617年(元和3年)に16歳で江戸幕府の御用絵師になりました。1621年(元和7年)に江戸城鍛冶橋門外の屋敷を本拠として、幕命によって日光・芝・上野の徳川家霊廟の装飾や江戸城の障壁画を制作しました。また大坂城・二条城・名古屋城・京都御所などの障壁画も制作しました。1623年(元和9年)に鍛冶橋狩野家を興し、1635年(寛永12年)に出家して探幽斎と称し、僧位・法眼(ほうげん)に叙せられ、1662年(寛文元年)に宮内卿法印(くないきょうほういん)になって狩野派の権威を不動のものとしました。狩野探幽は狩野派の大画様式に水墨画や大和絵などの技法を取り入れ、優美で、あか抜けた瀟洒(しょうしゃ)な様式に変えました。なお狩野探幽は1674年(延宝2年)に亡くなりました。
●西本願寺黒書院は桁行正面六間・背面七間・梁間左側面四間・梁間右側面六間で、寄棟造のこけら葺(こけらぶき)です。
寄棟造は四方向に傾斜する屋根面を持つ屋根の形式です。寄棟造は大棟(おおむね)の両端から四方に隅棟(すみむね)が降り、2つの台形と2つの二等辺三角形で構成されます。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や正倉院(しょうそういん)・唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂が代表例です。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。飛鳥時代(593年~709年)に建立された法隆寺(ほうりゅうじ)の五重塔(国宝)の屋根にも用いられています。
【西本願寺 備考】
*参考・・・京都世界遺産・西本願寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
●西本願寺の歴史(創建から現在)を紹介しています。
西本願寺歴史(親鸞聖人・覚信尼)
●西本願寺の見どころ(御影堂・阿弥陀堂など)を紹介しています。
西本願寺見どころ(御影堂・阿弥陀堂など)