西本願寺太鼓楼・西本願寺見どころ

西本願寺太鼓楼

●西本願寺太鼓楼は2014年(平成26年)9月18日に国の重要文化財に指定されました。
●西本願寺太鼓楼は江戸時代後期の1789年(寛政元年)に建立されました。西本願寺太鼓楼は江戸時代に周辺に時刻を告げていました。太鼓楼には金宝寺から寄進された大太鼓などが置かれました。幕末(江戸時代末期)に一時的新撰組(しんせんぐみ)の屯所になり、刀傷が残っています。
一般的に鼓楼は寺院で時を知らせる太鼓を吊るす堂塔です。鼓楼は古くは梵鐘を吊るす鐘楼(しょうろう)に相対して建立されました。なお鼓楼は太鼓楼(たいころう)などとも言われています。
新撰組は幕末(江戸時代末期)の1862年(文久2年)に江戸幕府が江戸幕府第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の上洛に際し、庄内藩郷士・清河八郎(きよかわはちろう)の建議を受け入れて将軍警護の浪士を募集し、翌1863年(文久3年)2月に集まった約200名を浪士組として京都に上らせたのが始まりです。しかし清河八郎が尊攘派と通じる動きを見せたことから浪士組が江戸に戻り、その後新徴組(しんちょうぐみ)が結成されました。また京都に残った近藤勇(こんどういさみ)・土方歳三(ひじかたとしぞう)を中心とする試衛館(しえいかん)派と芹沢鴨(せりざわかも)を中心とする水戸派が新選組の前身である壬生浪士組(みぶろうしぐみ)を結成しました。壬生浪士組は京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり)から不逞浪士の取り締まりと市中警備を任されました。1863年(文久3年)8月に急進的な尊攘派公家と長州藩を朝廷から排除した八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)の警備に出動し、新たな隊名・新選組を拝命しました。同年9月に芹沢鴨を暗殺して水戸派を一掃しました。1864年(元治元年)6月に池田屋事件で尊王攘夷派志士を斬殺・捕縛し、8月に禁門の変(蛤御門の変(はまぐりごもんのへん))の鎮圧に加わりました。1867年(慶応3年)6月に新選組は幕臣に取り立てられるが、1867年(慶応3年)10月に江戸幕府第15代将軍将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が大政奉還を行い、その後戊辰戦争(ぼしんせんそう)に参加するが、鳥羽・伏見の戦い(とばふしみのたたかい)で敗北しました。その後新選組局長・近藤勇が千葉県流山市で捕縛されて板橋刑場で処刑され、新選組一番隊組長・沖田総司(おきたそうじ)が持病の肺結核で江戸で死亡し、新選組副長・土方歳三が箱館戦争で戦死しました。
●西本願寺太鼓楼は桁行四間・梁間四間で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
西本願寺見どころ

ページ上部へ戻る