葵祭・賀茂競馬と織田信長

賀茂競馬(Kamo-Kurabeuma)

葵祭・賀茂競馬と織田信長

葵祭では前儀として賀茂競馬が上賀茂神社で行われています。賀茂競馬は古くから著名な武将も魅了し、「信長公記」などによると1578年(天正2年)に織田信長が自らの2頭の馬や馬廻衆の18頭の馬、合計20頭の馬を出し、馬具なども提供し、賀茂競馬を観覧しました。

★葵祭2024の最新情報・ニュース

【葵祭日程(要確認)】
葵祭・路頭の儀は例年5月15日に行われます。ただ悪天候の場合、翌16日に順延されます。
葵祭2024日程(時代行列・流鏑馬神事・・・)
●葵祭路頭の儀では人約500名・馬約40頭・牛4頭・牛車2台・輿(こし)1丁などの時代行列が巡行します。
葵祭路頭の儀

【葵祭 歴史・簡単概要】
葵祭(あおいまつり)は古墳時代後期の欽明天皇の時代(539年~571年)に京都をはじめ全国が風水害に見舞われて飢餓・疫病が流行し、賀茂大神(上賀茂神社・下鴨神社)の崇敬者・卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ賀茂大神の祟りであると奏した為、4月吉日を選んで、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)を被り、駆競(くち・かけくらべ)して盛大に祭りを行ったことが起源です。その後819年(弘仁10年)に律令制度の中で最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行われる国家的行事になり、平安時代中期に祭りと言えば、葵祭のことをさすほど隆盛を極めました。
葵祭歴史年表・由来

スポンサーリンク(Sponsor Link)

【葵祭・賀茂競馬と織田信長】
葵祭では前儀として賀茂競馬(かもくらべうま)が上賀茂神社で行われています。賀茂競馬は天下太平と五穀豊穣を祈願する武徳殿(ぶとくでん)の宮中行事(節会)が起源だったが、平安時代後期の1093年(寛治7年)に第73代・堀河天皇(ほりかわてんのう)が上賀茂神社に移しました。賀茂競馬に出走する馬は上賀茂神社が有していた全国20か所の荘園から献上され、費用も負担していました。20頭の馬は左方・右方に分かれ、10番の競馬が行われていました。荘園制度がなくなった現在もその名残から馬は荘園名で呼ぶ習わしになっています。ちなみに荘園には美作国倭文庄・加賀国金津庄・播磨国安志庄・能登国土田庄・阿波国福田庄・美濃国脛長庄・近江国舟木庄・若狭国宮川庄・淡路国淡路庄・出雲国出雲庄・備前国竹原庄・備前国山田庄・山城国名島庄・丹後国由良庄・和泉国深日庄・周防国伊保庄・伊予国菊方庄・尾張国玉井庄・伯耆国星川庄・三河国小野田庄がありました。賀茂競馬は古くから著名な武将を魅了し、「信長公記(しんちょうこうき)」などによると安土桃山時代の1578年(天正2年)に織田信長(おだのぶなが)が自らの2頭の馬や馬廻衆の18頭の馬、合計20頭の馬を出し、馬具なども提供して賀茂競馬を観覧しました。「信長公記」には「五月五日、賀茂の祭。競馬御神事、天下御祈祷の事に候。幸ひ御在洛の儀に候間、御馬を仰せ付けられ候様にと、伺ひ申すのところ、信長、度々、かち合戦にめさせられ候蘆毛の御馬、並に鹿毛の御馬二つ、其の外、御馬廻の駿馬を揃へ十八疋、都合廿疋、十番の分仰せ付けらる。御馬の儀は申すに及ばず、廿疋の御馬、御鞍・鐙・御轡、一々、何れもゝゝ、名物の御皆具仰せ付けられ、おびただしき御結構なされ、舎人、是れ又、美々しき出立、上古にも承り及ばず。然うして、黒装束の禰宜十人、赤装束の禰宜十人、右の廿疋の御馬に乗り、一番宛馬を走らかし、勝負を争ひ申すなり。蘆毛の御馬・鹿毛の御馬、元来、駿馬にて、達者なれば、申すに及ばず。御馬は、何れも勝ち申し候なり。末代の物語、貴賎・老若の群集申すばかりなし。」などと記されています。「賀茂注進雑記」には織田信長の家臣・太田牛一が奉行として派遣され、「賀茂別雷神社文書(上賀茂神社の算用状)」に織田信長が上賀茂神社から接待されたことが記されています。織田信長以外にも室町時代(南北朝時代)から戦国時代(室町時代後期)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)、室町幕府13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)、室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)などが賀茂競馬を観覧した記録が残されています。なお現在の賀茂競馬では12頭の馬が2頭ずつ左方の赤と右方の黒に分かれ、1馬身ほどの差をつけてスタートし、その差が広がれば前の馬の勝ち、縮まれば後ろの馬の勝ちになります。
上賀茂神社賀茂競馬

【織田信長 葵祭】
織田信長は1534年(天文3年)6月23日に戦国大名で、織田弾正忠家の当主・織田信秀と継室・土田御前の間に生まれ、織田信秀の嫡男でした。1551年(天文20年)に父が亡くなると家督を継ぎ、尾張守護代の織田大和守家・織田伊勢守家を滅ぼし、弟・織田信行を排除して尾張一国を統一しました。1560年(永禄3年)に桶狭間の戦で駿河国の戦国大名・今川義元を敗死させ、1562年(永禄5年)に三河の領主・徳川家康と同盟を結び、1567年(永禄10年)に美濃国の戦国大名・斎藤龍興を滅ぼすと尾張国・美濃国の2カ国を領する戦国大名になりました。1568年(永禄11年)に室町幕府15代将軍・足利義昭を擁して上洛し、朝倉氏・浅井氏を滅ぼし、1573年(天正元年)に足利義昭を河内に追放して室町幕府を滅ぼしました。1575年(天正3年)に長篠の戦いで甲斐国の戦国大名・武田勝頼を破り、1576年(天正4年)に安土城を築城しました。その後天下統一の途中である1582年(天正10年)6月21日に明智光秀による本能寺の変により、49歳で自刃しました。

【葵祭・賀茂競馬と織田信長 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
葵祭見どころ

関連記事

京都観光おすすめ

  1. 錦市場(Nishiki Market)
  2. 竹林の道(Bamboo Forest Path)
  3. 嵐山
ページ上部へ戻る