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妙喜庵書院・妙喜庵見所(修学旅行・観光)
妙喜庵書院
●妙喜庵書院は1903年(明治36年)4月15日に国の重要文化財に指定されました。
●妙喜庵書院は室町時代中期の文明年間(1469年~1487年)に建立されました。書院は臨済宗(りんざいしゅう)妙心寺派の大本山・妙心寺(みょうしんじ)の塔頭・霊雲院(れいうんいん)の書院を模して建てられ、俳諧の祖と称される連歌師・俳諧師である山崎宗鑑(やまざきそうかん)の旧居とも言われています。
霊雲院は室町時代後期(戦国時代)の1526年(大永6年)に妙心寺25世・大休宗休(だいきゅうそうきゅう)が模堂清範尼(もどうせいはんに)の帰依により、大徳寺46世で、妙心寺10世・特芳禅傑(とくほうぜんけつ)を勧請開祖として創建しました。霊雲院(霊雲派)は龍泉庵(りゅうせんあん・龍泉派)・東海庵(とうかいあん・東海派)・聖澤院(しょうたくいん・聖澤派)とともに四派四本庵(しはしほんあん)と言われ、室町時代以降に妙心寺を運営しました。書院は戦国時代(室町時代後期)の1532年(享禄5年・天文元年)頃に建立され、第105代・後奈良天皇(ごならてんのう)が度々行幸し、西北の間を御座所として使われたことから御幸の間(ごこうのま)とも言われています。
山崎宗鑑は室町時代中期の1465年(寛正6年)に出雲源氏の祖・佐々木義清(ささきよしきよ)の末裔で、志那弥三郎範重として近江国栗太郡志那村(草津市志那町)に生まれたと言われています。幼少時から室町幕府9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)に仕えました。一休さんとも言われる臨済宗(りんざいしゅう)大徳寺(だいとくじ)派の僧・一休宗純(いっきゅうそうじゅん)に参禅し、いずれも連歌師である宗祇 (そうぎ) ・宗長(そうちょう)らと親交を持ちました。1489年(延徳元年)に足利義尚が長享・延徳の乱(ちょうきょう・えんとくのらん)の陣中で病死すると後に出家し、摂津国尼崎または山城国薪村に隠棲し、その後山城国山崎に庵・對月庵を結び、山崎宗鑑と言われました。1523年(大永3年)頃に山崎を去り、1528年(享禄元年)に讃岐国(香川県観音寺市)の興昌寺(こうしょうじ)に庵・一夜庵を結び、戦国時代(室町時代後期)の1554年(天文23年)10月28日に亡くなりました。山崎宗鑑は室町時代の俳諧を代表する「犬筑波集(いぬつくばしゅう)」の編者で、滑稽・洒脱な俳諧・連歌をおこし、近世俳諧への道を開いたと言われています。また江戸時代に荒木田守武(あらきだもりたけ)とともに俳諧の鼻祖と称えられました。
●妙喜庵書院は桁行二間・梁間三間で、切妻造(きりづまづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮・出雲大社などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。
妙喜庵