花街お化け・仮装(節分の日(立春の前日))舞妓・芸妓

花街お化け・仮装
花街お化け・仮装を紹介しています。花街お化け・仮装は例年節分(立春の前日)に行われています。お化けでは舞妓・芸妓が普段の着物姿ではなく、男装などの趣向をこらした仮装を楽しみます。八坂神社の節分祭で見ることができる場合もあります。なお花街お化け・仮装ではお客が仮装したり、厄年の者が仮装して厄祓いすることもあるそうです。
●京都節分・豆まき(最新日程)
【花街お化け 日程時間(要確認)】
花街お化けは節分(立春の前日)の夜に行われます。ちなみに八坂神社の節分祭では祇園甲部・祇園東・宮川町・先斗町の舞妓が舞を披露して豆をまきを行います。その際に仮装を見られる場合があります。画像(舞妓の左側)は祇園東を撮影した際のものです。なお節分は毎年2月3日ではなく、変動することがあります。
八坂神社・節分祭
【五花街 マップ・地図】
【花街お化け 歴史・簡単概要】
●花街お化け(おばけ)・節分お化けは節分に行われます。その為花街・祇園では節分のことをお化けとも言うそうです。お化けでは舞妓・芸妓が普段の着物姿ではなく、男装などの趣向をこらした仮装を楽しみます。お客が仮装したり、厄年の者が仮装して厄祓いすることもあるそうです。なお祇園甲部では舞は京舞井上流と決められているが、節分だけは他の踊りも許されるそうです。
●「お化け」は子どもの様な格好をしたことから「お坊髪」と言われ、それが転訛して「お化け」になったとも言われています。
●節分(せつぶん・せちぶん)は元々は季節が変わる節目で、立春・立夏・立秋・立冬の前日を差していたが、江戸時代以降は立春の前日だけを指す場合が多くなりました。節分には邪気悪霊(鬼)が外から入ってくるのを防ぐ為、「鬼は外・福は内」と言いながら福豆を撒き、年の数だけ福豆を食べて厄除けをします。なお豆撒きは平安時代中期の第59代・宇多天皇(867年~931年)の時代に鞍馬山の鬼が都を荒らしたことから鬼の穴を祈祷で封じ、鬼の目を炒り豆で打ちつぶしたということに由来しているそうです。
●京都の花街にはいずれも舞妓・芸妓がいる祇園甲部・祇園東・宮川町・先斗町・上七軒の五花街があります。太夫がいる島原を含めて六花街と言われることもあります。
【祇園甲部(ぎおんこうぶ)】
祇園甲部は江戸時代(1603年~1868年)初期に八坂神社の門前で営業していた水茶屋とそこで働く茶点て女が起源と言われています。京都所司代・板倉重宗から茶点て女を置くことが許可され、八坂神社(祇園社)門前の茶屋町を「祇園町」と言うようになりました。
祇園甲部(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【祇園東(ぎおんひがし)】
祇園東は江戸時代(1603年~1868年)初期に八坂神社の門前で営業していた水茶屋とそこで働く茶点て女が起源と言われています。京都所司代・板倉重宗から茶点て女を置くことが許可され、八坂神社(祇園社)門前の茶屋町を「祇園町」と言うようになりました。その後明治時代(1868年~1912年)に祇園甲部から分離独立し、祇園乙部と言われていたが、戦後に祇園東新地、そして祇園東に名称を変更しました。
祇園東(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【宮川町(みやがわちょう)】
宮川町は江戸時代(1603年~1868年)に人気になった出雲・阿国(おくに)の歌舞伎踊りの頃から始まりました。当初は遊女などが接待していたが、江戸時代の三大改革によって打撃を受けました。
宮川町(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【先斗町(ぽんとちょう)】
先斗町は江戸時代(1603年~1868年)初期に鴨川の州を埋め立て、茶屋や旅籠が置かれたのが始まりと言われています。先斗町の先斗という地名はポルトガル語のponto(先)が語源とも、先斗町が鴨川と高瀬川に挟まれ、2枚の皮に挟まれている鼓に例えられ、鼓の「ポン」と鳴る音に掛けたとも言われています。
先斗町(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【上七軒(かみしちけん)】
上七軒は室町時代(1336年~1573年)に北野天満宮が再建された際、残った資材を使って7軒の茶店が建てられたのが起源とされ、「上七軒」と言われるようになりました。桃山時代(1583年~1603年)に関白・豊臣秀吉が北野大茶湯を開いた際、茶店が団子を献上しました。その後江戸時代(1603年~1868年)に下の森や五番町に茶屋株を貸し、芸妓中心の花街として発展しました。
上七軒(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【花街お化け 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。