花街春のをどり・おどり(北野をどり・都をどり・京おどり)
花街春のをどり・おどり
花街春のをどり・おどり(日程・時間・・・)を紹介しています。春のをどり・おどりは3月下旬頃から行われる北野をどり(上七軒)を皮切りに始まり、4月に行われる都をどり(祇園甲部)・京おどり(宮川町)、そして5月に行われる鴨川をどり(先斗町)と続きます。ちなみに祇園をどり(祇園東)は11月に行われます。
【春のをどり・おどり マップ・地図】
【上七軒・北野をどり】
北野をどりは1952年(昭和27年)に北野天満宮の50年に1度行われる大萬燈祭(千五十年大萬燈祭)の記念して初演されました。北野をどりはフィナーレに「上七軒夜曲」が定番になっています。
上七軒は室町時代に北野天満宮が再建された際、残った資材を使って天満宮の東門前の松原に7軒の茶店が建てられたのが起源です。当初、七軒茶屋と称していたそうです。1587年(天正15年)に関白・豊臣秀吉が北野天満宮で茶会(北野大茶湯)を開いた際、茶店が団子を献上しました。そしてその褒美にみたらし団子を商う特権と法会茶屋株を公許されました。
上七軒・北野をどり
【祇園甲部・都をどり】
都をどりは1872年(明治5年)に京都で初めて開催された博覧会の余興として、鴨川をどり(先斗町)とともに上演されたのが始まりです。京都府知事が作詞、井上八千代が伊勢古市の亀の子踊りを参考に振付を担当しました。
祇園甲部は江戸時代初期に八坂神社の門前で営業していた水茶屋とそこで働く茶点て女が起源と言われています。京都所司代・板倉重宗により、茶点て女を置くことが許可され、八坂神社(祇園社)門前の茶屋町を「祇園町」と言うようになりました。1872年(明治5年)にお茶屋一力亭9代目・杉浦治郎右衛門や初代京都府知事などにより、祇園甲部歌舞会が設立されました。
祇園甲部・都をどり
【宮川町・京おどり】
京おどりは1950年(昭和25年)に最初に上演されました。その後1954年(昭和29年)から1968年(昭和43年)までは阪急電鉄京都線の延長工事の為に南座で上演され、1969年(昭和44年)からは宮川町歌舞練場で上演されるようになりました。京おどりは旧字体の「をどり」ではなく、新字体の「おどり」が使われています。
宮川町は江戸時代に人気になった出雲・阿国(おくに)の歌舞伎踊りの頃から始まったと言われています。宮川町は歌舞伎発祥の地とも言われています。宮川町では当初遊女などが接待していたが、江戸時代の三大改革によって打撃を受けました。
宮川町・京おどり
【先斗町・鴨川をどり】
鴨川をどりは1872年(明治5年)京都で初めて開催された博覧会の余興として、都をどり(祇園甲部)と共に上演されたのが始まりです。第二次世界大戦中は中断された時期もあったが、春・秋との二回公演を行った時期がありました。
先斗町は江戸時代初期に鴨川の州を埋め立て、茶屋や旅籠が置かれたのが始まりと言われています。その後度々取り締りを受けたが、川端二条にあった二条新地の出店に認められました。1870年(明治3年)に二条新町から独立しました。
先斗町・鴨川をどり
【春のをどり・おどり 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。