神沢貞幹(かんざわていかん)の「翁草」と五山送り火
神沢貞幹の「翁草」と五山送り火
五山送り火は古くから行われていると言われているが、いつから始まったかは明確ではありません。鳥居形は文献上の資料が少ないが、江戸時代中期の1791年(寛政3年)に随筆家・神沢貞幹が刊行した「翁草」にも大文字などとともに記されています。
【五山送り火2025 日程】
五山送り火2025は2025年(令和7年)8月16日(土曜日)20:00から5分間隔で順次点火されます。なお五山送り火は原則雨天決行だが、気象条件によって点火時間が変更になる場合もあります。
五山送り火2025
【五山送り火 歴史・簡単概要】
五山送り火(ござんのおくりび)はお盆(おぼん・盂蘭盆(うらぼん))にあの世(冥府(めいふ))から帰ってきたお精霊さん(おしょらいさん)をあの世に送り返す仏教的行事です。五山送り火は宗教・歴史的な背景から「大文字の送り火」とも言われることがあります。五山送り火はいつ始まったかは明確ではありません。一説には多くの灯明を灯して仏神を供養する万灯会(まんどうえ)が山の山腹で行われるようになり、お盆の精霊の送り火(門火(かどび))になったとも言われています。
【神沢貞幹(かんざわていかん)の「翁草(おきなぐさ)」】
五山送り火は古くから行われていると言われているが、いつから始まったかは明確ではありません。ただ江戸時代(1603年~1868年)以降に文献などに多く記されるようになりました。ちなみに五山の送り火の中では大文字・妙法・船形が文献に多く記され、左大文字・鳥居形が少ないと言われています。鳥居形は絵図(絵地図「洛外図」)などを除く、文献上の初見が大文字・妙法・船形・左大文字に比べるとかなり遅く、江戸時代中期の1717年(享保2年)に刊行された「諸国年中行事(しょこくねんちゅうぎょうじ)」が初見と言われています。鳥居形は江戸時代中期の1791年(寛政3年)に随筆家・神沢貞幹が刊行した「翁草」にも大文字・妙法・舟の形・左大文字・鳥居とともに記されています。鳥居形が文献に記される機会が少ないのは洛中の中心から西北に離れた場所に灯されるからとも言われています。右京と左京の発展差などが影響しているのかもしれません。なお公家・舟橋秀賢(ふなはしひでかた)が記した日記「慶長日件録(けいちょうにっけんろく)」には「晩に及び冷泉亭に行く、山々灯を焼く、見物に東河原に出でおわんぬ」と記され、1603年(慶長8年)7月16日に鳥居形とは反対方向に位置する鴨川(賀茂川)の東河原で見物したことが分かります。江戸時代前期には鴨川(賀茂川)一帯で見物することが一般的だったのかもしれません。
●「翁草」は京都町奉行所与力・神沢貞幹(かんざわていかん)が記しました。1772年(明和9年)に前編100巻が成立し、1784年(天明4年)に抄出本が刊行され、1788年(天明8年)の天明の大火で焼失したが、その後も編述は続き、1791年(寛政3年)に後編100巻が完成しました。「翁草」には室町時代末期(戦国時代)から1791年(寛政3年)までの約200年間の歴史・地理・文学・芸能・有職故実・芸術・工芸・宗教などが記されています。「翁草」には織田信長・豊臣秀吉・歴代徳川将軍などをはじめ、あらゆる階層・地方の人々が登場します。
●神沢貞幹(神沢杜口(かんざわとこう))は江戸時代中期の1710年(宝永7年)に入江家に生れました。神沢貞幹は与兵衛・可々斎・其蜩庵・静坐百六十翁などと称しました。神沢家は古く村上源氏赤松氏と同族と言われています。1719年(享保4年)に兄とともに爪木晩山が主催する誹諧会を傍聴し、その後爪木晩山・松木淡々に俳諧を学びました。1720年(享保5年)に京都町奉行所与力・神沢弥十郎貞宜の養子になり、一時俳諧から離れたが、1725年(享保10年)に俳諧仲間ができ、再び俳諧に励みます。その後神沢弥十郎貞宜の娘・香と結婚し、与力になりました。妻・香との間に子供が5人生れたが、末娘以外は早く亡くなったと言われています。元文年間(1736年~1741年)の内裏造営の際に向井伊賀守組与力として本殿係を務め、その後に目付に昇進しました。40歳以降に病弱を理由に辞職して婿養子に後を継がせました。1753年(宝暦3年)に妻が亡くなり、迷惑を掛けないように娘一家と同居せず、借家を転々としました。神沢貞幹は京都町奉行所時代から文筆を好み、退職後に文筆活動に専念していたが、1788年(天明8年)1月の天明の大火で「翁草」の草稿や家宝などを全て焼失しました。天明の大火の実地調査を行って被災地図を完成させ、一時大坂の知人に身を寄せたが、その後京都に戻りました。1789年(寛政元年)に大病を患い、マラリアにも罹患し、死も覚悟したが、その後快復しました。神沢貞幹は晩年に聴力を失ったが、80歳にまで健脚だったと言われています。神沢貞幹は江戸時代後期の1795年(寛政7年)3月11日に亡くなりました。神沢貞幹は辞世を残さないと決め、「辞世とは 即ちまよひ たゞ死なん」の句を用意していました。
【神沢貞幹の「翁草」と五山送り火 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
五山送り火スポット