御室桜(開花見頃・日本さくら名所100選・・・)仁和寺見どころ

御室桜(開花見頃・日本さくら名所100選・・・)
御室桜を解説します。御室桜は遅咲きのオムロアリアケ(御室有明)のことです。御室桜の見頃は例年4月中旬頃だが、気候の影響を受け、多少前後します。近年は地球温暖化の影響により、開花予想・見頃などが早くなっています。(詳細下記参照)
【御室桜の概要・概略】
- 概要・概略:御室桜(おむろざくら)は中門(重要文化財)内の西側一帯に植えられている約200本のオムロアリアケ(御室有明)のことを言います。御室桜は1924年(大正13年)に国の名勝に指定されました。なお御室桜は京都府内で、京都市の嵐山(あらしやま)・京都市の醍醐寺(だいごじ)・笠置町の笠置山自然公園(かさぎやましぜんこうえん)とともに日本さくら名所100選にも選ばれています。なお仁和寺にはオムロアリアケ以外にも金堂前に染井吉野(ソメイヨシノ)、鐘楼前に枝垂桜(シダレザクラ)が植えられ、普賢象(フゲンゾウ)・染井吉野・山桜・妹背・殿桜などの桜の木も植えられています。
- オムロアリアケ:オムロアリアケはバラ科サクラ属の落葉小高木です。オムロアリアケには花が一重と八重の株があり、八重咲きの株は八重御室有明とも言われています。
- 拝観料:仁和寺は普段、本坊御殿・霊宝館を除き、境内への入場は無料です。ただ御室桜の開花時(4月)などに「御室花まつり」が行われ、その期間は拝観料が必要になります。(要確認)
【御室桜の歴史・時代】
- 歴史・時代:御室桜(オムロアリアケ)は金堂(国宝)・五重塔(重要文化財)などの伽藍が再建された江戸時代(1603年~1868年)前期の寛永年間(1624年~1645年)頃に植えられたと言われています。仁和寺は室町時代中期の応仁の乱(おうにんのらん)で伽藍の多くが焼失しました。1634年(寛永11年)に第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の第1皇子で、仁和寺21世・覚深入道親王(かくしんがにゅうどうしんのう)が上洛していた江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)に仁和寺再興を申し入れて承諾され、御所造替と重なったことから金堂となる紫宸殿(ししんでん)・御影堂となる清涼殿(せいりょうでん)などを賜り、1646年(正保3年)に伽藍の再建が完了しました。
- 桜の起源:仁和寺での桜の起源は平安時代(794年~1185年)と言われています。957年(天徳元年)に観桜(花見)を兼ねた法会である仁和寺桜会(さくらえ)が行われました。なお鎌倉時代(1185年~1333年)前期の1229年(安貞3年)に仁和寺から桜1株が閑院内裏南殿(紫宸殿(ししんでん)前に移植されたとも言われています。
【御室桜の名称・名前】
- 名称・名前:御室桜の名称は平安時代中期の904年(延喜4年)に開基・宇多法皇(第59代・宇多天皇(うだてんのう))が仁和寺山内に僧房・御室(御座所)を設けて住み、御室御所と言われたことに由来しています。宇多法皇は華道・御室流の流祖(家元)とされています。家元には仁和寺の歴代門跡が就任し、称号を授与しました。御室流には生花(古典花)・自由花(盛花・投入花)・創作花があり、生花は密教の三大(体・相・用)に基づき、3本の役枝で表されます。
- 宇多天皇:宇多天皇は867年(貞観9年)に第58代・光孝天皇の第7皇子として生まれました。父は不祥事によって退位させられた第57代・陽成天皇の大叔父にあたり、884年(元慶8年)に臣籍降下させられ、源定省と称しました。887年(仁和3年)に父が重態になると関白・藤原基経の推挙により、親王に復して立太子され、父が崩御すると天皇に即位しました。891年(寛平3年)に藤原基経が亡くなると親政を開始し、菅原道真などを重用し、寛平の治と言われました。遣唐使が停止され、日本三代実録・類聚国史(るいじゅこくし)が編纂され、官庁の統廃合なども行われました。897年(寛平9年)に皇太子・敦仁親王(第60代・醍醐天皇)に譲位しました。899年(昌泰2年)に出家して法皇になり、仁和寺に入り、高野山・比叡山・熊野三山などを参詣しました。901年(昌泰4年)に側近であった菅原道真が大宰府に左遷される昌泰の変が起こり、内裏に押し掛けて座り込んで抗議したが、聞き入れられず、・醍醐天皇と対立しました。宇多天皇は931年(承平元年)に崩御しました。
【御室桜の特徴(遅咲き・低木)】
- 遅咲き:御室桜は遅咲きで、桜の見ごろは例年4月中旬頃です。京都市内の染井吉野(ソメイヨシノ)は例年3月下旬頃~4月上旬頃に見ごろを迎えるが、染井吉野の見ごろが過ぎてから見ごろを迎えます。(桜の見ごろはその年の気候の影響を受け、多少前後します。)御室桜は地理的に桜の見ごろが遅くなる原谷苑(はらだにえん)とともに例年4月中旬頃にお花見ができる桜名所として知られています。原谷苑は標高約180メートルにあり、市街地よりも1度ほど気温が低くなります。なお御室桜の見ごろには御室花まつりが行われています。(要確認)
- 低木:御室桜は樹高が染井吉野などの桜の木と比較すると低く、樹高が2~3メートルになります。御室桜が低木で、桜の見ごろが遅くなるのは長年植えられている場所の地盤が硬い岩盤で、それによって御室桜が根を深く伸ばせないからと考えられ、御室桜の謎とも言われていました。しかし近年行われたボーリングの土壌調査により、地盤の固い地層と粘土質(ねんどしつ)の土壌に炭素(たんそ)・窒素(ちっそ)などの栄養素や空気がほとんど含まれていないことが原因だと分かったそうです。
- お多福桜:御室桜は低木であることから俗謡「わたしゃお多福 御室の桜 鼻が低ても 人が好く」とも言われ、「鼻(花)が低い」ことからお多福桜とも言われています。
【御室桜と桜名所・お花見】
- 桜名所:御室桜は江戸時代前期の儒学者(じゅがくしゃ)・本草学者(ほんそうがくしゃ)である貝原益軒(かいばらえきけん)は「京城勝覧(けいじょうしょうらん)・1706年(宝永3年)」の中で、「洛中洛外にて第一とす」と絶賛しました。また御室桜は江戸時代に庶民の桜として親しまれ、数多くの和歌・俳句などにも詠われました。江戸時代中期の俳人・画家である与謝蕪村(よさぶそん)は「ねぶたさの 春は御室の 花よりぞ」と詠みました。また春泥(しゅんでい・黒柳召波(くろやなぎしょうは))は「仁和寺や 足もとよりぞ 花の雲」、桐奚(とうけい)は「花盛り 御室の路の 人通り」と詠みました。
- お花見:仁和寺ではかつて貴族など身分が高い者だけにお花見が許され、江戸時代前期の寛永年間(1667年~1673年)には第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう)もお花見を楽しんだとも言われています。その後江戸時代中期の1757年(宝暦7年)頃に困窮している門前の庶民に観桜期だけに茶店の出店を認めるようになり、庶民もお花見ができるようになったそうです。「都名所図会(みやこめいしょずえ)・江戸時代後期」には花見の様子が鳥瞰図(ちょうかんず)で紹介されています。
【御室桜 備考】
*参考・・・仁和寺(見どころ・歴史・御室桜・・・)ホームページ