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愛宕念仏寺本堂・愛宕念仏寺見所(修学旅行・観光)
愛宕念仏寺本堂
●愛宕念仏寺本堂は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財に指定されました。
●愛宕念仏寺本堂は鎌倉時代後期の1318年(文保2年)に再建されました。愛宕念仏寺はかつて勅願寺として七堂伽藍を備えていたが、その後興廃を繰り返し、本堂・地蔵堂・仁王門だけが残され、1922年(大正11年)に堂宇保存の為に東山区松原通大和大路東入北側から現在の場所である右京区嵯峨鳥居本深谷町に移り、本堂なども移されました。本堂は鎌倉時代に造仏され、厄除け千手観音とも言われる本尊・千手観音(せんじゅかんのん)を安置しています。千手観音はその眼差しが左右対称ではなく、厳しさと優しさという仏の慈悲の二面性を顔の左面・右面に分けて表現していると言われ、「慈面悲面の千手観音」 と称されています。ちなみに本堂前にはふれ愛観音堂が建立され、ふれ愛観音像が安置されています。なお平安時代中期に愛宕念仏寺を再興した千観(せんかん)は自ら一刀三十三礼をして本尊を刻んだと伝えられ 、厄除千手観音として厚く信仰されました。
千手観音は千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざいぼさつ)の略称です。千手観音は観音菩薩の変化(へんげ)像のひとつで、聖観音(しょうかんのん)・十一面観音(じゅういちめんかんのん)・馬頭観音(ばとうかんのん)・如意輪観音(にょいりんかんのん)・准胝観音(じゅんでいかんのん)または不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)とともに六観音に数えられています。観音菩薩は救う相手の姿に応じて千変万化の相となると言われ、「観音経」では様々に姿を変える三十三応化身(さんじゅうさんおうげしん)が説かれています。観音菩薩は人々の救いを求める声を聞き、その苦悩から救済すると言われています。千手観音は観音菩薩が世の一切衆生を救う為、千の手と千の目を得たいと誓って得た姿で、千の手と千の目は慈悲と救済が無量無辺であることを表わしています。ちなみに千手観音の像容は42の手を持ち、胸前で合掌(がっしょう)する2本の手を除き、40本の手がそれぞれ天上界から地獄までの25の世界を救うとされています。(40×25=1,000)
●愛宕念仏寺本堂は桁行五間・梁間五間で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。本堂は和様(わよう)で、須弥壇(しゅみだん)の格狭間(こうざま・香狭間)に鎌倉様式が見られます。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
愛宕念仏寺