黄梅院本堂・黄梅院見どころ(修学旅行・観光)

黄梅院本堂

●黄梅院本堂は1922年(大正11年)4月13日に国の重要文化財に指定されました。
●黄梅院本堂は安土桃山時代の1586年(天正14年)または1588年(天正16年)に竹原小早川家第14代当主・小早川隆景(こばやかわたかかげ)の援助によって建立されました。1977年(昭和52年)に約400年振りに解体修理が行われました。本堂には水墨画家・雪舟(せっしゅう)の画風を継承した毛利家御用絵師で、雲谷派の祖・雲谷等顔(うんこくとうがん)筆の「紙本墨画(しほんぼくが)竹林七賢図(ちくりんしちけんず)・襖貼付16面(重要文化財)」・「紙本墨画芦雁図(ろがんず)・襖貼付14面(重要文化財)」・「紙本墨画山水図(さんすいず)・襖貼付14面(重要文化財)」が飾られていました。(現在複製)
小早川隆景は戦国時代(室町時代後期)の1533年(天文2年)に戦国大名で、毛利氏第12代当主・毛利元就と正室・妙玖の三男として安芸吉田郡山城で生まれました。1540年(天文10年)3月に竹原小早川氏第13代当主・小早川興景が佐東銀山城攻めの最中に亡くなり、継嗣が無かったことから養子になり、1543年(天文13年)11月に12歳で竹原小早川家第14代当主になりました。1550年(天文19年)に沼田小早川氏当主・小早川正平の娘・問田大方を正室とし、小早川家二家が合一されました。同母兄で、吉川氏の養子になった吉川元春とともに毛利氏を助け、「毛利の両川」と言われました。1582年(天正10年)の織田信長の家臣・豊臣秀吉による中国攻め際、明智光秀による本能寺の変が起こり、小早川隆景が毛利氏の外交責任者として豊臣秀吉と交渉にあたって講和を結びました。その後豊臣秀吉に信任され、豊臣秀吉による四国攻め・九州平定・小田原攻め・文禄の役に参戦しました。1594年(文禄3年)に豊臣秀吉の義理の甥・小早川秀秋を養子に迎え、1595年(文禄4年)に豊臣政権で徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家とともに五大老になりました。その後病気になったことから養子・小早川秀秋に家督を譲り、本領・備後三原に隠退し、桃山時代の1597年(慶長2年)7月26日に亡くなりました。
雲谷等顔は肥前国能古見城主・原直家の子として生まれました。京都で狩野派に学び、その後毛利氏14代当主毛利輝元に仕え、雪舟筆の「山水長巻」とその旧居・雲谷庵を与えられ、途絶えていた雪舟画の再興を命じられ、雪舟正系を名乗りました。雲谷等顔は雪舟の画風を踏襲しつつも、桃山文化らしい装飾性豊かな作風を確立しました。
●黄梅院本堂は桁行約19.1メートル・梁間約15.3メートルで、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。本堂は禅宗特有の方丈建築です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
黄梅院

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