黄梅院庫裏・黄梅院見どころ(修学旅行・観光)

黄梅院庫裏

●黄梅院庫裏は1976年(昭和51年)5月20日に国の重要文化財に指定されました。
●黄梅院庫裏は安土桃山時代の1589年(天正17年)に竹原小早川家第14代当主・小早川隆景(こばやかわたかかげ)の寄進によって建立されました。庫裏は禅宗寺院の庫裏として日本最古級と言われています。庫裏は僧侶の居住空間と台所の機能を持っています。
小早川隆景は戦国時代(室町時代後期)の1533年(天文2年)に戦国大名で、毛利氏第12代当主・毛利元就(もうりもとなり)と正室・妙玖(みょうきゅう)の三男として安芸吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)で生まれました。1540年(天文10年)3月に竹原小早川氏第13代当主・小早川興景(こばやかわおきかげ)が佐東銀山城(さとうかなやまじょう)攻めの最中に亡くなり、継嗣が無かったことから養子になり、1543年(天文13年)11月に12歳で竹原小早川家第14代当主になりました。小早川興景の妻は毛利元就の兄・毛利興元(もうりおきもと)の長女で、毛利元就の姪(めい)にあたります。1550年(天文19年)に沼田小早川氏当主・小早川正平(こばやかわまさひら)の娘・問田大方(といだのおおかた)を正室とし、小早川家二家が合一されました。同母兄で、吉川氏の養子になった吉川元春(きっかわもとはる)とともに宗家・毛利氏を助け、「毛利の両川(りょうせん)」と言われました。1582年(天正10年)の織田信長(おだのぶなが)の家臣・豊臣秀吉(とよとみひでよし)による中国攻め際、明智光秀(あけちみつひで)による本能寺の変が起こり、小早川隆景が毛利氏の外交責任者として豊臣秀吉と交渉にあたって講和を結びました。その後豊臣秀吉に信任され、豊臣秀吉による1585年(天正13年)の四国攻め・1586年(天正14年)の九州平定・1590年(天正18年)の小田原攻め・1592年(天正20年)からの文禄の役に参戦しました。1594年(文禄3年)に豊臣秀吉の義理の甥・小早川秀秋(こばやかわひであき)を養子に迎え、1595年(文禄4年)に豊臣政権で徳川家康(とくがわいえやす)・前田利家(まえだとしいえ)・毛利輝元(もうりてるもと)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)とともに五大老になりました。その後病気になったことから養子・小早川秀秋に家督を譲り、本領・備後三原に隠退し、桃山時代の1597年(慶長2年)7月26日に亡くなりました。なお小早川隆景は学問を好み、禅を修しました。
●黄梅院庫裏は桁行約約12.9メートル・梁間約17.4メートルで、切妻造(きりづまづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。
黄梅院

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