祇園祭と1500年(明応9年)の祇園祭再興
祇園祭と1500年(明応9年)の祇園祭再興
祇園祭は1467年(応仁元年)に勃発した応仁の乱により、1500年(明応9年)までの33年間も中絶します。1500年(明応9年)に祇園祭が再興され、6月7日の前祭に鉾が1基・山が25基、6月14日の後祭に鉾がなく、山が10基巡行しました。
【祇園祭2025 日程】
祇園祭2025は2025年7月1日(火曜日)の吉符入(きっぷいり)から2025年7月31日(木曜日)の疫神社(えきじんじゃ)の夏越祭(なごしさい)までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2025日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)
【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)
【祇園祭と1500年(明応9年)の祇園祭再興】
祇園祭は室町時代中期の1467年(応仁元年)に勃発し、1477年(文明9年)に収束した応仁の乱(おうにんのらん)により、1500年(明応9年)までの33年間も中絶します。応仁の乱前には1500年(明応9年)の祇園祭再興の際に侍所(さむらいどころ)の開闔・松田豊前守頼亮(まつだぶぜんのかみよりすけ)がまとめた「祇園会山鉾事」によると前祭に32基、後祭に28基に山鉾がありました。1500年(明応9年)に祇園祭が再興され、太政大臣・近衛政家(このえまさいえ)が記した「後法興院記(ごほうこういんき)」1500年(明応9年)6月7日の条に「山廿五、鉾一」、6月14日の条に「山十外無鉾」と記され、6月7日の前祭に鉾が1基・山が25基(合計26基)、6月14日の後祭に鉾がなく、山が10基(合計10基)巡行しました。応仁の乱の勃発から33年、収束から23年も経過しているが、復興できなかった山鉾もあります。特に大型の鉾や後祭で復興できなかった山鉾が多かったようです。ちなみに前祭のたい子のそま人山や後祭のかづら山など現存しない山鉾もあります。
1500年(明応9年)の「祇園会山鉾次第以籤定之(祇園社記)」によると前祭が1番・ナギナタホコ、2番・天神山、3番・いほしり山、4番・たい子のそま人山、5番・内裏ノ花ヌス人山、6番・花見中将山、7番・ダルマ山、8番・かづら男山、9番・山伏山、10番・白楽天山、11番・まうそう山、12番・神功皇后山、13番・かさはやし、14番・はぢか山、15番・天神山、16番・みち作山、17番・琴はり山、18番・兼水山、19番・布袋山、20番・こきやこはやし、21番・はうか山、22番・山伏ミ子入山、23番・あしかり山、24番・八幡山、25番・にわ鳥山、26番・船鉾の順に巡行しました。また後祭が1番・うしわか山、2番・八わた山、3番・すゞか山、4番・くわんおんふだらく、5番・あしうさうしやうめう、6番・大友の黒主、7番・竜門の滝、8番・かづら山、9番・ゑんの行者山、10番・たか山の順に巡行しました。
「後法興院記」は太政大臣・近衛政家が記しました。「後法興院記」の名称は近衛政家の法号「後法興院」に由来しています。「康富記」は1466年(寛正7年)から1505年(永正2)の記録が残されています。「後法興院記」には政治情勢・合戦の様相・伝統的行事・家領経営などが記されています。
【応仁の乱 祇園祭】
応仁の乱は将軍の継嗣問題と畠山氏・斯波氏の家督争いが原因で、細川勝元(ほそかわかつもと)を総大将とする東軍と山名宗全(やまなそうぜん・山名持豊(やまなもちとよ))を総大将とする西軍に分かれ、1467年(応仁元年)から1477年(文明9年)までの11年間にわたって戦われました。将軍の継嗣問題は室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)に嗣子がなく、1464年(寛正5年)11月に足利義政の弟・義尋(ぎじん)を足利義視 (あしかがよしみ) に還俗させて後継者としたが、翌1465年(寛正6年)1月に足利義政の夫人・日野富子(ひのとみこ)が足利義尚 (あしかがよしひさ) を生むと対立が起こりました。畠山氏の家督争いは畠山政長(はたけやままさなが)・畠山義就(はたけやまよしなり)兄弟による争いで、足利義政は畠山政長を助け、細川勝元も味方したが、大和に逃れた畠山義就を山名宗全が京都に向かい入れて対立しました。斯波氏の家督争いは斯波氏に子がなく、一族の斯波義敏(しばよしとし)を後継者としたが、家宰らが斯波義敏を廃して斯波義廉(しばよしかど)を後継者にするように奏して許されたが、斯波義廉が山名宗全の女婿であったことから再び斯波義敏を擁立する策謀があって対立しました。1473年(文明5年)3月に山名宗全が亡くなり、同年5月に細川勝元が亡くなり、同年12月に足利義政が足利義尚に将軍職を譲り、1477年(文明9年)11月に西軍、次いで東軍も陣を解いて戦乱は収束しました。応仁の乱は京都で始まり、その後諸国の大名などが東軍・西軍に分かれて全国的規模に発展し、京都が戦乱で焦土と化し、将軍の権威が失墜しました。
【祇園祭と1500年(明応9年)の祇園祭再興 備考】
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祇園祭2025日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)