応仁の乱(おうにんのらん・応仁文明の乱)と祇園祭

応仁の乱(応仁文明の乱)と祇園祭
応仁の乱(応仁文明の乱)は足利将軍の継嗣問題と畠山氏・斯波氏の家督争いが原因とし、1467年(応仁元年)に始まり、1477年(文明9年)に終結するまでの約11年戦われました。祇園祭は応仁の乱が勃発した1467年(応仁元年)から再興される1500年(明応9年)までの33年間中絶しました。応仁の乱では八坂神社もほぼ全焼したと言われています。
【祇園祭2027 日程】
祇園祭2027は2027年(令和9年)7月1日(木曜日)の吉符入から2027年(令和9年)7月31日(土曜日)の疫神社の夏越祭までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2027日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)
【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)
【応仁の乱(おうにんのらん・応仁文明の乱(おうにんぶんめいのらん))】
応仁の乱(応仁文明の乱)は足利将軍の継嗣問題(足利義視と足利義尚)と畠山氏(畠山政長と畠山義就)・斯波氏(斯波義敏と斯波義廉)の家督争いが原因とし、1467年(応仁元年)に始まり、1477年(文明9年)に終結するまでの約11年戦われました。祇園祭は応仁の乱が勃発した1467年(応仁元年)から再興される1500年(明応9年)までの33年間中絶しました。応仁の乱では八坂神社もほぼ全焼したと言われています。
1467年(文正2年)1月17日に東軍の畠山政長(はたけやままさなが)が自邸に火を放ち、上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)附近の上御霊林に陣を敷き、西軍の畠山義就(はたけやまよしなり)が釈迦堂(しゃかどう)から出兵して攻撃する御霊合戦を皮切りに応仁の乱が勃発しました。同年5月26日に上京の戦いが起こり、京都で本格的な戦いが始まり、北側の船岡山から南側の二条通りまでが焼失しました。5月頃から東軍は足利将軍家の邸宅である室町第(むろまちてい・花の御所)を中心とし、北側の寺之内通・南側の一条・東側の烏丸・西側の小川のエリアに土塁・堀に囲まれた防御陣地・御構(おんかまえ)を築き、天皇・上皇・公家・武家などが避難しました。祇園祭が行われる6月に戦闘が更に拡大し、南北が二条から御霊の辻、東西が大舎人町から室町までに戦禍が広がりました。
奈良・興福寺(こうふくじ)の塔頭(たっちゅう)・大乗院(だいじょういん)門跡(もんぜき)の日記「大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃざつじき)」1467年(応仁元年)6月14日の条に「十四日、丁卯、天晴。一、京都の飛脚到来。去る十二日の京都の体、色々分明なり。 一、随心院殿より、一昨日十二日の御書状、今日これを拝領す。京都の戦の儀、いよいよ珍事、言語道断の体なり。今年の祇園会は相止む。神輿渡御以下、一向にこれ無し。京中、東西に陣を据え、連日合戦の間、祭礼に及ばざるの由これを聞く。ただ神事ばかりこれ有るかと云々。 一、武田・大内、一昨日十二日、各々軍勢を率いて洛中に発向すと云々。東軍に加わらんと欲するの由これを聞く。」と記され、応仁の乱の勃発で祇園祭が中止になったことが分かります。東軍・西軍が洛中に陣を敷いて連日合戦が行われ、神輿渡御・山鉾巡行などが一切行われず、最小限の神事だけが行われるようだ。東軍の武田信賢、西軍の大内政弘などが軍勢を率いて京都洛中に向かい、東軍・西軍に加わるようだ。応仁の乱の勃発から半年で洛中に戦禍が広がったが、更に軍勢が増加し、戦禍が拡大することが予想できたようです。8月に西軍の大内政弘が大軍を率いて入京し、東軍が優勢だった戦況が西軍が優勢に変わりました。
「祇園本縁雑実記(ぎおんほんえんざつじっき)」1467年(応仁元年)9月の条に「百四代後土御門院応仁元年六月八日、京大焼け。祭礼(祇園祭)、沙汰に及ばず。同九月十八日、当社炎上す。この時、本殿・拝殿・門々・末社迄悉ク炎上シケル。神躰ヲ林中ニ遷し奉テ、後ニ仮屋ヲ作テ遷し奉ル。」と記され、6月8日に応仁の乱で京都が大規模に焼失し、祇園祭が中止になったことが分かります。また9月18日に八坂神社も兵火に見舞われ、本殿・拝殿・門や末社までもことごとく焼失し、神体を北側の祇園林に遷して祀り、その後仮殿が建てられて神体を祀りました。その後仮殿は東軍に放火されたとも言われています。応仁の乱の勃発から9ヶ月で戦禍が更に拡大し、東山の八坂神社まで焼失しました。
応仁の乱はその後も戦闘が拡大し、勃発から3、4年ほど経過した1470年(文明2年)頃までには武家・公家の邸宅や寺社の大部分が焼失し、戦禍を免れたのは現在の京都御所にあたる土御門内裏(つちみかどだいり)など僅かだったと言われています。約11年間に及ぶ応仁の乱では延べ数十万の軍勢が京都に集結し、勝敗の決着がつかないまま収束し、室町幕府が弱体化します。
●応仁の乱は将軍の継嗣問題と畠山氏・斯波氏の家督争いが原因で勃発しました。将軍の継嗣問題は室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)に嫡子がなく、義政の弟・義尋(ぎじん・足利義視 (あしかがよしみ) )を還俗させて後継者としたが、1465年(寛正6年)に義政の妻・日野富子(ひのとみこ)が義尚 (よしひさ) を生むと対立が起こりました。畠山氏の家督争いは畠山政長(はたけやままさなが)・畠山義就(はたけやまよしなり)兄弟による対立です。斯波氏の家督争いは斯波氏に子がなく、一族の斯波義敏(しばよしとし)を後継者としたが、家宰らが斯波義廉(しばよしかど)を後継者にするように奏したことから対立が起こりました。東軍は総大将の細川政元(ほそかわかつもと)・畠山政長・斯波義敏、西軍は総大将の山名宗全(やまなそうぜん)・畠山義就・斯波義廉を中心に東西に分かれて戦いました。応仁の乱は1473年(文明5年)3月に山名宗全が亡くなり、同年5月に細川勝元も亡くなり、同年12月に足利義政が足利義尚に将軍職を譲り、1477年(文明9年)11月に西軍が陣を解き、次いで東軍も陣を解くと約11年にも及ぶ戦火が収束しました。応仁の乱では公家・武家・寺社が多かった京都の上京が焼け、商工業者が多かった下京が焼け残りました。
【応仁の乱(応仁文明の乱)と祇園祭 備考】
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祇園祭2027日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)















