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過去の記事一覧
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東坊城秀長(ひがしぼうじょうひでなが)の「迎陽記」と葵祭
南北朝時代から室町時代初期の公卿・東坊城秀長の日記「迎陽記」には南北朝時代から室町時代前期の葵祭の様子が記されています。葵祭は平安時代中期に隆盛を極めたが、鎌倉時代・室町時代に徐々に衰えたと言われています。 -

法然院の歴史-修学旅行・観光の簡単解説
法然院の歴史を簡単にまとめています。法然院は鎌倉時代初期に浄土宗の宗祖・法然上人が弟子である安楽・住蓮とともに念仏三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えた鹿ヶ谷草庵が起源と言われています。建永の法難よって草庵は長く荒廃しました。 -

源高明(みなもとのたかあきら)の「西宮記」と葵祭
平安時代に祭りと言えば、葵祭を指すほど隆盛し、その様子が貴族の日記などに記されています。第60代・醍醐天皇の第10皇子で、左大臣・源高明が記した「西宮記」には鴨祭・賀茂祭とも言われた葵祭のことが記されています。 -

第66代・一条天皇(いちじょうてんのう)の一条院と葵祭
葵祭の路頭の儀では内裏を出発した勅使らの奉幣使一行と賀茂斎院を出発した斎王一行が一条大宮で合流しました。一条大宮の南東には一条天皇の仮皇居である一条院があり、葵祭の供奉者は騎乗していた馬から下馬することがありました。 -

禧子内親王(きしないしんのう)・斎王退下と葵祭
葵祭に奉仕する斎王は天皇が崩御した際に退下し、新しい斎王が卜定されました。また斎王は父母の喪に服したり、自身が病気になったりすると退下しました。斎王は代替わりがあっても退下しないことも度々ありました。 -

鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね)と葵祭
鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経は1238年(嘉禎4年)1月28日に京都に上洛する為に鎌倉を出発し、2月17日に京都に入洛して六波羅御所に入り、4月16日に葵祭を見物し、10月13日まで京都に滞在して鎌倉に戻りました。 -

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)と葵祭
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝は鎌倉時代前期の1195年(建久6年)2月14日に東大寺大仏殿落慶供養に参列の為に鎌倉を出発し、3月12日に落慶供養に参列し、4月17日の葵祭の摂関賀茂詣を見物することを禁止しました。 -

「源氏物語(げんじものがたり)」の斎王(斎院)と葵祭
紫式部作の「源氏物語」には平安時代中期に隆盛を極めた葵祭に奉仕した斎王が描かれています。「源氏物語」には桐壺帝の第3皇女である女三宮、光源氏の従妹である朝顔が登場し、それぞれの父親の死亡で斎王を退下します。 -

第72代・白河天皇(しらかわてんのう)と葵祭
白河天皇には令子内親王・禛子内親王・官子内親王がおり、それぞれが斎王に卜定されたこともあり、白河天皇は葵祭を見物した記録が多く残されています。白河天皇は斎王が鴨川で身を清める御禊などを見物しました。 -

「栄花物語(えいがものがたり)」・藤原道長と葵祭
「栄花物語」には平安時代中期に摂関政治の全盛期を築いた藤原道長・藤原頼通親子が描かれています。摂関政治では自身の娘を天皇に入内させ、その娘に皇子が誕生すると外戚(外祖父)として権勢を振るいました。 -

「賀茂注進雑記(かもちゅうしんざっき)」と葵祭
「賀茂注進雑記」は江戸時代前期に江戸幕府4代将軍・徳川家綱の命により、上賀茂神社の神職が由来などを調査してまとめ、幕府に納めたものです。「賀茂注進雑記」には葵祭や葵祭の前儀・賀茂競馬なども記されています。 -

浄禅寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説
浄禅寺の歴史を簡単にまとめています。浄禅寺は寺伝によると1144年(天養元年)または1182年(寿永元年)に真言宗の僧・文覚上人が袈裟御前の菩提を弔う為に創建したと言われています。当初、知法庵と称したとも言われています。













