六角堂歴史の簡単まとめ-修学旅行・観光ガイド

六角堂

六角堂歴史の簡単まとめ

六角堂歴史を簡単にまとめてポイント解説します。六角堂は寺伝によると587年(用明天皇2年)に聖徳太子が創建したとも言われているが、発掘調査によると飛鳥時代の遺構は見つからず、10世紀後半頃に創建されたと推定されるそうです。なお六角堂歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(如意輪観音)】

★第30代・敏達天皇(びだつてんのう)の時代(572年~585年)に第31代・用明天皇(ようめいてんのう)の皇子・聖徳太子(しょうとくたいし・厩戸皇子(うまやどのおうじ))は淡路島(あわじしま)の岩屋浦に漂着した如意輪観音(にょいりんかんのん)像を念持仏(ねんじぶつ)としました。

【六角堂創建(起源・由来)】

★六角堂は寺伝によると587年(用明天皇2年)に聖徳太子(厩戸皇子)が創建したとも言われています。聖徳太子は排仏派の物部守屋(もののべのもりや)討伐の際、念持仏・如意輪観音像に戦勝を祈願し、勝利した場合に大阪・四天王寺(してんのうじ)の建立を誓います。その後討伐に勝利し、587年(用明天皇2年)に四天王寺建立の為に材木を求めて、小野妹子(おののいもこ)とともに京都盆地を訪れ、池で身を清める為に念持仏・如意輪観音像を木に掛けると重くなって動かなくなり、如意輪観音像がこの地にとどまって人々を救いたいと告げました。聖徳太子は伽藍を建立することとし、東からやってきた老翁(唐崎明神(からさきみょうじん))から紫雲たなびく杉の霊木のを教えられ、その木材で六角形の御堂を建て、如意輪観音像を安置したと言われています。ちなみに小野妹子を始祖とする僧侶の住坊・池坊 (池房) が建てられ、池坊の僧が本尊・如意輪観音像に花を供えたことから華道家元・池坊の起源になったとも言われています。
★1974年(昭和49年)から発掘調査が行われ、飛鳥時代(592年~710年)の遺構が確認できず、六角堂は10世紀後半頃(平安時代中期)に創建されたとも言われています。なお「六角小路」という地名は藤原道長(ふじわらのみちなが)の日記「御堂関白記(みどうかんぱくき)」1017年(寛仁元年)3月21日条に記され、これが文献上の早い例とされています。

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【奈良時代(710年頃~794年頃)の出来事】

★奈良時代後期に「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)・1322年(元亨2年)上程」によると平安京造営の際、六角堂が街路の中央に位置し、邪魔な為に取り壊されそうになったが、黒雲が現れ、六角堂は自ら北側に約5丈(約15メートル)動いたとも言われています。

【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】

★平安時代中期に花山法皇(第65代・花山天皇(かざんてんのう))が六角堂に行幸し、花山法皇が中興した西国三十三所(さんごくさんじゅうさんしょ)観音霊場の札所になったとも言われています。
★1178年(治承2年)に平清盛(たいらのきよもり)の娘で、第81代・安徳天皇(あんとくてんのう)の生母・建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ・平徳子)が安産祈願の為に如意輪観音像が寄進したという伝承が残されています。
★平安時代後期に後白河法皇(第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう))は平安時代末期の歌謡集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」の中で、「観音験(しるし)を見する寺」として、六角堂を清水寺(きよみずでら)・石山寺(いしやまでら)・長谷寺(はせでら)などとともに挙げ、「間近く見ゆるは六角堂」と謳われました。なお六角堂は平安時代後期には観音霊場として著名で、藤原実資(ふじわらのさねすけ)・藤原忠通(ふじわらのただみち)・九条兼実(くじょうかねざね)・藤原頼長(ふじわらのよりなが)らが六角堂を参詣しました。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】

★1201年(建仁元年)に比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)で修行していた浄土真宗(じょうどしんしゅう)の宗祖である親鸞(しんらん)が六角堂に百日参籠するという誓いを立てました。親鸞は夜になると比叡山を下りて六角堂に籠もり、朝に比叡山に戻ることを繰り返し、95日目の暁に如意輪観音からお告げを受け、浄土真宗を開祖するくきっかけを得たと言われています。
★1218年(建保6年)頃に天台宗(てんだいしゅう)の本山・延暦寺(えんりゃくじ)の末寺になったとも言われています。
★1125年(天治2年)に火災に見舞われました。六角堂は1125年(天治2年)から江戸時代末期までに確認できるだけで18回もの災害に見舞われたが、その度に復興されました。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】

★1462年(寛正3年)に東福寺(とうふくじ)の僧・雲泉太極(うんぜんたいきょく)の日記「碧山日録(へきざんにちろく)」によると池坊専慶(いけのぼうせんけい)が武将・京極高秀(きょうごくたかひで・佐々木高秀)に招かれ、草花数十枝を金瓶(きんぺい)に挿し、京都の好事者(こうずもの)の評判を呼んだと言われています。
★1461年(寛正2年)に室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)が時宗(じしゅう)の僧・願阿弥(がんあみ・成就院願阿)に命じ、六角堂に救済小屋を建て、貧窮者に対する粥施行(かゆせぎょう)を行なわせたました。
★1542年(天文11年)に池坊専応(いけのぼうせんのう)が花伝書「池坊専応口伝(いけのぼうせんおうくでん)」を著しました。
★室町時代後期から江戸時代末期に祇園祭(ぎおんまつり)の山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式が行われるようになりました。祇園祭は室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))によって33年間に渡って中断し、1500年(明応9年)に復興する際にくじ取り式が室町幕府の奉行衆・松田豊前守頼亮(まつだぶぜんのかみよりすけ)の私宅で始めれ、その後六角堂で行われるようになり、明治時代以降に京都府庁で行われるようになりました。なお六角堂でくじ取り式が行われるようになった理由や時期は明確ではないが、六角堂は京都の中心地で、下京の町堂として下京の人々の精神的な拠り所だったことが理由とも言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】

★1641年(寛永18年)に内裏(だいり)が造営された際、余材で本堂・四脚門が再建されたと言われています。
★宝永年間(1704年~1711年)・天明年間(1781年~1789年)・元治年間(1864年~1865年)に六角堂が焼失しました。
★江戸時代に多聞院(たもんいん)・不動院(ふどういん)・住心院(じゅうしんいん)・愛染院(あいぞめいん)などの塔頭(たっちゅう)があったが、廃寺などで現存していません。

【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】

★1877年(明治10年)に現在の本堂が再建されました。
★2008年(平成20年)に花山法皇一千年忌に際し、2008年(平成20年)から2010年(平成22年)に本尊・如意輪観音像が開帳されました。如意輪観音像の開帳は1872年(明治5年)以来、136年振りでした。

【聖徳太子:六角堂開基】

聖徳太子は574年(敏達天皇3年)に第31代・用明天皇と第29代・欽明天皇の第3皇女で、皇后・穴穂部間人の第2皇子として生まれました。聖徳太子は父母がいずれも第29代・欽明天皇を父とする異母兄妹で、兄弟婚によって生まれました。聖徳太子は幼少時から聡明で、仏法を尊んだと言われています。585年(用明天皇元年)に祖父・敏達天皇が崩御すると父が即位したが、 587年(用明天皇2年)に崩御しました。593年(崇峻天皇5年)に叔母で、史上初の女帝である第33代・推古天皇が即位すると皇太子・摂政になり、蘇我馬子ととともに天皇を補佐しました。聖徳太子は内政・外交などの政治に尽力し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階、604年(推古天皇12年)に十七条憲法を制定したり、607年(推古天皇15年)に小野妹子を遣隋使として派遣したりしました。また聖徳太子は仏教に深く帰依し、聖徳太子建立七大寺(法隆寺(斑鳩寺)・広隆寺(蜂丘寺)・法起寺(池後寺)・四天王寺・中宮寺・橘寺・葛木寺)と言われる法隆寺・四天王寺などの寺院を創建したり、「三経義疏」を著したりして仏教の振興に尽くしました。聖徳太子は622年(推古天皇30年)2月22日に亡くなりました。

【六角堂歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・千本ゑんま堂(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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