廬山寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

廬山寺の歴史を時代別年表で紹介。
廬山寺の歴史を簡単にまとめています。廬山寺は天慶年間(938年~947年)に比叡山延暦寺の中興の祖で、厄除け大師とも言われる比叡山天台18世座主である元三大師・良源が船岡山の南に創建したと言われています。なお廬山寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。
【前史(蓮台野)】
★船岡山(ふなおかやま)は京都府京都市北区にある標高約111.7メートルの山です。船岡山は南北に断層があり、隆起して形成されたとも言われています。船岡山は古くから磐座(いわくら)として信仰されていたとも言われています。また船岡山は古来から景勝の地で、清少納言(せいしょうなごん)が随筆「枕草子(まくらのそうし)」の231段で「岡は船岡」と名称を記しています。更に船岡山は葬送地で、歌人・随筆家である吉田兼好(よしだけんこう)が「徒然草(つれづれぐさ)」の137段で「鳥部野、舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし」と記しています。なお船岡山は室町時代(1336年~1573年)に船岡山城が築城され、室町時代中期の応仁の乱の際に西軍の陣地になりました。
【廬山寺創建(起源・由来)】
★廬山寺は平安時代中期の天慶年間(938年~947年)に比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)の中興の祖で、厄除け大師(やくよけだいし)とも言われる比叡山天台18世座主(ざす)である元三大師(がんざんだいし)・良源(りょうげん)が船岡山(ふなおかやま)の南に創建したのが起源と言われています。938年(天慶元年)に元三大師・良源が船岡山南麓に與願金剛院(よがんこんこういん)を創建したとも言われています。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
★1245年(寛元3年)に浄土宗(じょうどしゅう)の宗祖・法然上人(ほうねんしょうにん)の弟子・覚瑜(かくゆ)が船岡山南麓に再興し、蓮社を結び、中国の廬山に因んで寺号を廬山天台講寺(ろざんてんだいこうじ)に改めたと言われています。また1245年(寛元3年)に覚瑜が出雲路(いずもじ)に寺院を建立し、廬山に因んで廬山寺と号したとも言われています。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
★1368年(応安元年)に與願金剛院と廬山寺(廬山天台講寺)の住持を兼務していた明導照源(みょうどうしょうげん)により、與願金剛院が廬山寺を合寺し、寺号が廬山寺、正式名称が廬山天台講寺になったと言われています。廬山寺は天台宗・密教・律宗・浄土宗の四宗兼学道場になったと言われています。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
★1401年(応永8年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が廬山寺を参詣したと言われています。
★室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、伽藍が焼失しました。
★1569年(永禄12年)に火災に見舞われ、同年に再建されたと言われています。
★1570年(永禄13年)に廬山寺の塔頭(たっちゅう)として、竹中坊・金光院・宝林院があったと言われています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
★1571年(元亀2年)に織田信長(おだのぶなが)が比叡山焼き討ちを行った際、第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう)の女房奉書により、廬山寺が被害を免れました。織田信長の家臣・明智光秀(あけちみつひでに)に廬山寺が戒律を守っているから焼き討ちをしないようにという女房奉書が下され、その縁で明智光秀の念持仏が廬山寺に奉納されています。
★天正年間(1573年~1593年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命により、廬山寺が現在の場所に移されました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
★1708年(宝永5年)の宝永の大火・1788年(天明8年)の天明の大火により、廬山寺が焼失しました。
★1794年(寛政6年)に第119代・光格天皇(こうかくてんのう)が仙洞御所(せんとうごしょ)の女院・閑院宮を移し、仏殿(本堂)・尊牌殿(御黒戸)を再建しました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
★明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、1872年(明治5年)に宮中から天台宗にお預けになったが、第122代・明治天皇(めいじてんのう)の勅命により、廬山寺が復興されました。廬山寺は明治維新まで二尊院(にそんいん)・般舟院(はんじゅいん)・遣迎院(けんこういん)とともに御黒戸四箇院(おくろどしかいん)と言われる宮中の仏事を司る四ケ寺に数えられていました。また明治維新後に塔頭の金光院・十輪院・不動院が廬山寺に合寺されたと言われています。
★1948年(昭和23年)に廬山寺が四宗兼学の天台圓淨宗として独立しました。
★1965年(昭和40年)に考古学者・角田文衞により、廬山寺が紫式部(むらさきしきぶ)邸跡とされました。紫式部は曽祖父で、権中納言・藤原兼輔(ふじわらのかねすけ・堤中納言)が建てた邸宅(堤第)で育ち、結婚生活を送り、一人娘の藤原賢子を生み、1031年(長元4年)頃に亡くなったとも言われています。
【良弁僧正:廬山寺開山】
慈恵大師・良源(元三大師)は912年(延喜12年)に近江国浅井郡虎姫(滋賀県長浜市)の豪族・木津氏の一族として生まれました。923年(延長元年)に延暦寺西塔の理仙の弟子になり、928年(延長6年)に第13代天台座主・尊意によって受戒しました。937年(承平7年)の維摩会で法相宗の義昭を論破し、太政大臣・藤原忠平に認められました。忠平没後はその子で、第62代・村上天皇の外戚である右大臣・藤原師輔の後援を受け、935年(承平5年)の火災・966年(康保3年)の火災で焼失した延暦寺の伽藍を再建しました。また藤原氏などから荘園を寄進され、経済的基盤の確立にも努めました。963年(応和3年)に御所清涼殿で興福寺の法蔵を屈服させて名声を上げ、966年(康保3年)に第18代天台座主になりました。また963年(応和3年)に律師、968年(安和元年)に権少僧都、981年(天元4年)に大僧正になりました。慈恵大師・良源は延暦寺の伽藍の復興・天台教学の興隆・山内の規律の維持などに尽力したことから中興の祖とも言われています。また母親への孝行も有名で、出家後に比叡山に登れない母親の為に苗鹿(大津市)に山荘を設けて尽くしました。慈恵大師・良源を象った護符(角大師・豆大師など)があり、厄除け大師としても信仰されています。なお慈恵大師・良源は985年(永観3年)に亡くなりました。
【廬山寺歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・廬山寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ