龍安寺西の庭・龍安寺見どころ

龍安寺西の庭

●龍安寺西の庭は1982年(昭和57年)に室町時代風の庭園に復元されました。龍安寺西の庭中央付近に細川廟が建立されています。細川廟には江戸時代前期の1658年(明暦4年)に藤原種久(ふじわらのたねひさ)が造った龍安寺開基・細川勝元(ほそかわかつもと)の木像が安置されています。また細川廟には細川家歴代の管領の位牌も安置されています。
細川勝元は室町時代中期の1430年(永享2年)に室町幕府第14代管領・細川持之(ほそかわもちゆき)と京極高光(きょうごくたかみつ)の娘の嫡男として生まれました。1442年(嘉吉2年)に父・細川持之が死去したことから13歳で家督を継ぎ、叔父・細川持賢(ほそかわもちかた)の後見によって摂津国・丹波国・讃岐国・土佐国の守護になりました。また室町幕府第7代将軍・足利義勝(あしかがよしかつ)から偏諱を受けて「勝元」と名乗りました。1445年(文安2年)16歳で畠山持国(はたけやまもちくに)に代わって室町幕府第16代管領になり、その後も第18代管領・第21代管領になり、通算23年間も室町幕府管領職を歴任しました。1447年(文安4年)に山名宗全(やまなそうぜん)の養女を正室に迎え、当初山名宗全と協調したが、山名氏が滅ぼした赤松氏再興を支持すると次第に対立するようになりました。室町幕府第8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)と正室・日野富子(ひのとみこ)の間に室町幕府第9代将軍となる足利義尚(あしかがよしひさ)が誕生すると足利将軍家と管領である畠山氏(はたけやまし)・斯波氏(しばし)で継嗣問題が起こりました。細川勝元は東軍総大将になり、山名宗全を西軍総大将とする西軍と応仁の乱(応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん))で約11年間にわたって戦いました。細川勝元は軍事よりも謀略・駆け引きに長じていたと言われています。細川勝元は1473年(文明5年)6月6日に亡くなりました。その直前には山名宗全も亡くなっており、1474年(文明6年)に東軍・西軍は和睦しました。
●龍安寺細川廟は宝形造(ほうぎょうづくり)の銅板葺(どうばんぶき)です。
宝形造は隅棟(すみむね)が屋根の中央に集まり、屋根の頂部に水平の棟を作らない屋根形式です。ちなみに宝形造は寄棟造(よせむねづくり)のように雨が四方に流れ落ちます。宝形造の名称は露盤(ろばん)・伏鉢(ふくばち)・宝珠(ほうじゅ))の総称を宝形と言うことに由来しています。なお宝形造は方形造とも言われています。屋根が六角形の場合に六注、八角形の場合に八注と言われています。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。なお765年(天平宝字9年・天平神護元年)に奈良・西大寺(さいだいじ)で銅板葺が用いられたのが最古の記録とも言われています。
龍安寺見どころ

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