龍安寺蹲踞・龍安寺見どころ

龍安寺蹲踞

●龍安寺蹲踞は水戸黄門(水戸光圀)とも言われる常陸水戸藩第2代藩主・徳川光圀(とくがわみつくに)が「大日本史(だいにほんし)・明治時代完成」を編纂する際、西源院本「太平記(たいへいき)」を借り、お礼として寄進したと言われています。龍安寺蹲踞は茶室・蔵六庵(ぞろくあん)の露地にあります。また龍安寺蹲踞のレプリカは方丈裏にあります。
徳川光圀は江戸時代前期の1628年(寛永5年)7月11日に常陸水戸藩初代藩主・徳川頼房(とくがわよりふさ)と側室・久昌院(きゅうしょういん)の三男として生まれました。父・徳川頼房は正室がいなかたことから堕胎を命じたが、それに背いて密かに出産したとも言われています。1632年(寛永9年)に水戸城に入城し、翌1633年(寛永10年)11月に世子に決定し、翌月に江戸小石川藩邸に入って世子教育を受けました。ただ同母兄・松平頼重(まつだいらよりしげ)を差し置いて世子に決定したことが複雑な気持を抱かせ、その後蛮行を行ったとも言われています。1634年(寛永11年)に江戸城で江戸幕府第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)に拝謁し、1636年(寛永13年)に元服し、徳川家光からの偏諱(へんき)を与えられて光国に改めました。1654年(承応3年)に前関白・近衛信尋(このえのぶひろ)の娘・尋子(ちかこ・泰姫)と結婚し、1657年(明暦3年)に駒込邸に史局を設置し、歴史書「大日本史」の編纂作業に着手しました。1661年(寛文元年)に父・徳川頼房が水戸城で亡くなると常陸水戸藩28万石の第2代藩主になりました。その後同母兄・松平頼重の長男・松平頼世(まつだいらよりよ)と次男・采女(うねめ・徳川綱條(とくがわつなえだ))を養子とし、松平頼世が亡くなったが、徳川綱條が常陸水戸藩第3代藩主になりました。1679年(延宝7年)頃に諱を光圀に改め、1690年(元禄3年)に江戸幕府から隠居の許可が下り、1691年(元禄4年)に隠居所・西山荘(せいざんそう)に隠棲しました。1694年(元禄7年)江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)の命で江戸に上り、江戸小石川藩邸内での能舞興行の際に水戸藩家老・藤井徳昭(ふじいのりあき)を刺殺しました。1696年(元禄9年)に亡妻・泰姫の命日に落飾しました。なお徳川光圀は1701年(元禄13年)1月14日になくなりました。
●龍安寺蹲踞は中央の水穴を「口」の字に見立て、四方の文字と共用し「吾唯足知(われただたることをしる)」と読みます。「吾唯足知」はお釈迦様が入滅に際し、弟子に示した最後の説法の様子を描いた「仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)」の中の「知足の者は 賎(いや)しと雖(いえど)も富めり 不知足の者は 富めりと雖(いえど)も賎(いや)し」から引用され、「欲望は際限ないから現状を満ち足りたものとする」ということ表しているそうです。
お釈迦さま(釈迦牟尼 ゴータマ・シッダッタ)は仏教の開祖で、世界四聖の一人です。ちなみに仏陀とは悟った者・目覚めた者を意味するお釈迦様の尊称です。お釈迦さまは約2,500年前の旧暦の4月8日、インド国境に近いネパールのルンビニーの花園で、父・シャカ族の国王である浄飯王(じょうばんのう・シュッドーダナ)と母・摩耶夫人(まやふじん・マーヤー)との間に生まれました。お釈迦さまは生まれてすぐに7歩歩き、右手で天、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と唱えたとも言われています。29歳で出家し、35歳の旧暦の12月8日の夜明け前、明星出現と同時にブッダガヤの菩提樹の下で、悪魔の誘惑に負けずに悟りを開きました。その後約45年間に渡り、インド各地を回って教えを説き、クシナーラで亡くなりました。お釈迦さまの遺骸は火葬され、遺骨は各地のストゥーパに分けて祀られたそうです。
龍安寺見どころ

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