龍光院兜門・禹門・龍光院見どころ(修学旅行・観光)

龍光院兜門・禹門

●龍光院兜門・禹門は1908年(明治41年)8月1日に国の重要文化財に指定されました。
●龍光院兜門・禹門はいずれも江戸時代前期(1615年~1660年)に建立されたと言われています。兜門は聚楽第(じゅらくてい)内にあった茶人・千利休(せんのりきゅう)の屋敷門を移したとも言われています。
千利休は1522年(大永2年)に田中与兵衛と月岑妙珎の子として生まれました。17歳から茶の湯を習い、先ず茶匠・北向道陳に師事し、その後茶人・武野紹鴎に師事しました。1544年(天文13年)に松屋久政らを招いて茶会を開き、その後堺の実質的支配する三好氏の御用商人になりました。1569年(永禄12年)に今井宗久・津田宗及とともに織田信長の茶頭になりました。1582年(天正10年)の本能寺の変後に関白・豊臣秀吉に仕えて茶頭になりました。1585年(天正13年)に秀吉が禁中茶会を催した際、号・利休居士を与えられ、天下一の茶人としての地位を確立し、1587年(天正15年)に秀吉による北野大茶湯も主管しました。ちなみに千利休は秀吉の政事にも関わり、キリシタン大名・大友宗麟が大坂城を訪れた際、豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と忠告されたと言われています。しかし1591年(天正19年)に突然秀吉の逆鱗に触れ、1591年(天正19年)4月21日に切腹を命じられました。
聚楽第は1585年(天正13年)に関白に就任した豊臣秀吉が政庁兼邸宅とする為、1586年(天正14年)2月に着工し、翌1587年(天正15年)9月に完成し、秀吉が二条第(妙顕寺城)から移りました。1591年(天正19年)12月に秀吉が甥・豊臣秀次に氏長者(家督)と関白職を譲ると豊臣秀次の邸宅になり、翌1592年(天正20年)1月にも第107代・後陽成天皇が再度行幸しました。1593年(文禄2年)8月に豊臣秀頼が誕生し、1595年(文禄4年)7月に秀吉が秀次を高野山に追放して切腹し、翌8月から秀吉が聚楽第を徹底的に破却し、建物の一部が伏見城に移されました。
●龍光院兜門は一間(いっけん)平唐門(ひらからもん)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
平唐門は唐破風(からはふ)の屋根を門に応用した門で、門の両側面に唐破風をつけた平入りの唐門です。
一般的に唐門は切妻造(きりづまづくり)・入母屋造(いりもやづくり)の屋根に丸みをつけて造形した唐破風(からはふ)がついた門です。唐門は豪華な彫刻が施されたものは向唐門(むこうからもん)、唐破風が妻にある簡素なものは平唐門(ひららもん)と言われています。唐門は平安時代後期に見られるようになり、桃山時代が隆盛期と言われています。
唐破風は弓形のように中央部を丸みをつけ、両端が反りかえった曲線状に造形した破風です。軒唐破風は屋根本体の軒先を丸みを帯びた造形した破風です。向唐破風は屋根本体とは別に出窓のように造形した破風です。なお破風は切妻造(きりづまづくり)・入母屋造(いりもやづくり)の屋根の妻の三角形の部分です。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
●龍光院禹門は一間一戸(いっけんいっこ)向唐門(むかいからもん)の檜皮葺です。
向唐門は唐破風の屋根を門に応用した門で、門の前後に唐破風をつけた唐門です。
龍光院

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