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龍光院黒田家霊屋・龍光院見所(修学旅行・観光)
龍光院黒田家霊屋
●龍光院黒田家霊屋は2016年(平成28年)2月9日に国の重要文化財に指定されました。
●龍光院黒田家霊屋は江戸時代前期の1608年(慶長13年)に建立されました。黒田家霊屋は黒田官兵衛とも言われる筑前国福岡藩祖・黒田孝高(くろだよしたか)と正室・櫛橋光(くしはしてる)を祀っています。黒田家霊屋には黒田孝高とその嫡男・黒田長政(くろだながまさ)の木像も安置されていたが、火事で焼失したそうです。
黒田孝高(黒田官兵衛(くろだ かんべえ)・黒田如水(くろだじょすい))は戦国時代(室町時代後期)の1546年(天文15年)12月22日に黒田職隆(くろだもとたか)と小寺政職(こでらまさもと)の養女・お岩の嫡男として播磨国姫路に生まれました。1561年(永禄4年)に赤松(あかまつ)氏の分家にあたる小寺政職の近習になり、1562年(永禄5年)に父・黒田職隆とともに土豪征伐で初陣を飾りました。1567年(永禄10年)頃に父・黒田職隆から家督と家老職を継いで姫路城(ひめじじょう)城代になり、櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘・光(てる)を正室に迎えました。織田信長が勢力を拡大し、1575年(天正3年)の長篠の戦い(ながしののたたかい)で織田信長が武田勝頼(たけだかつより)を破ると父・黒田職隆とともに主君・小寺政職に織田信長につくことを進言し、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の取次で織田信長に岐阜城(ぎふじょう)で謁見しました。1578年(天正6年)からの三木合戦(みきかっせん)で有岡城(ありおかじょう)に単身で乗り込んで説得したが、捕らえられて土牢に幽閉され、翌1579年(天正7年)に有岡城が落城すると救出され、その後豊臣秀吉に与力として重用されました。黒田孝高は居城の姫路城を豊臣秀吉に譲り、国府山城(こうやまじょう)を居城にしました。1582年(天正10年)の高松城攻め(たかまつじょうぜめ)で水攻めを献策し、その最中に本能寺の変(ほんのうじのへん)が起こると毛利輝元(もうりもとなり)と和睦し、明智光秀(あけちみつひで)を討つように献策したと言われています。その後山崎の戦(やまざきのたたかい)・賤ケ岳の戦(しずがたにのたたかい)・四国攻め(しこくぜめ)・九州平定(きゅうしゅうへいてい)などで軍功を挙げ、1587年(天正15年)に豊前国の12万石を与えられ、中津城(なかつじょう)を築城しました。1589年(天正17年)に嫡男・黒田長政(くろだながまさ)に家督を譲り、猪熊(京都)・伏見・大坂などを拠点に豊臣秀吉の側近として引き続き仕えました。1590年(天正18年)の小田原征伐(おだわらせいばつ)で軍師として従軍し、小田原城に乗り込んで北条氏政(ほうじょううじまさ)・北条氏直(ほうじょううじなお)父子を説得し、無血開城させました。1592年(天正20年)からの文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)にも従軍したが、豊臣秀吉からは軍令に従わずに戦線を離脱したと見なされ、剃髪して如水軒円清(じょすいけんえんせい)と号し、豊臣秀吉から赦されました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に接近し、1600年(慶長5年)の関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)で嫡男・黒田長政とともに徳川方・東軍に属し、中津城で留守を守りました。その後隠居生活を送り、1604年(慶長9年)4月19日に京都伏見藩邸で亡くなりました。
●龍光院黒田家霊屋は桁行三間・梁間三間で、寄棟造(よせむねづくり)の銅板葺(どうばんぶき)です。
寄棟造は四方向に傾斜する屋根面を持つ屋根の形式です。寄棟造は大棟(おおむね)の両端から四方に隅棟(すみむね)が降り、2つの台形と2つの二等辺三角形で構成されます。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や正倉院(しょうそういん)・唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂が代表例です。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。
龍光院