龍光院書院・龍光院見所(修学旅行・観光)

龍光院書院

●龍光院書院は1908年(明治41年)8月1日に国の重要文化財、1961年(昭和36年)4月27日に国宝に指定されました。
●龍光院書院は江戸時代前期(1624年~1643年)に建立されました。書院は密庵席(みったんせき)とも言われる四畳半台目茶室・十畳・八畳・六畳・四畳半・三畳・八畳などから構成されています。密庵席の名称は床に南宋(中国)の臨済宗(りんざいしゅう)揚岐派(ようぎは)の高僧・密庵咸傑(みったんかんけつ)禅師の墨蹟を掛けることに由来し、千利休(せんのりきゅう)の待庵(たいあん)・織田有楽斎(おだうらくさい)の如庵(じょあん)とともに国宝の三茶室に数えられています。書院は先ず密庵席の袋棚(ふくろだな)小襖の絵を描いた真言宗の僧・松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)が亡くなる1639年(寛永16年)までに密庵席が建てられ、1649年(慶安2年)に昭堂が建立される龍光院の再整備に合わせ、密庵席を組み入れた書院が建立されたとも言われています。2012年(平成24年)に桟瓦葺(さんがわらぶき)から当初にこけら葺に復原されました。なお密庵席は小堀遠州(こぼりえんしゅう)好みと言われています。
小堀遠州(小堀政一(こぼりまさかず))は1579年(天正7年)に備中国松山藩初代藩主・小堀正次と近江国佐和山城主・磯野員昌の娘の長男・作助として生まれました。名前は元服後に正一・政一と改め、遠州の名前は1604年(慶長9年)に父・小堀正次が亡くなり、没後に従五位下(じゅごいげ)・遠江守(とおとうみのかみ)に叙任されたことに由来しています。1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉の異父弟・豊臣秀長が大和郡山城に移封されると家老となった父・小堀正次とともに大和郡山に移りました。その後1591年(天正19年)に豊臣秀長、1595年(文禄4年)に豊臣秀長の婿養子・豊臣秀保が亡くなり、1595年(文禄4年)に豊臣秀吉の直参になって京都伏見に移り、わび茶(草庵の茶)の完成者である茶人・千利休とともに茶の湯を大成した茶人・大名で、茶道織部流の祖・古田織部(古田重然)に茶道を学んで第一の弟子と称されました。茶の湯は10歳の時に大和郡山城で千利休の点前を実見してから関心を持っていたと言われています。また公卿・歌人で、上冷泉家9代当主・冷泉為満に歌道も学びました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると江戸幕府初代将軍・徳川家康に仕え、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの功によって父・小堀正次が備中松山城を賜り、1604年(慶長9年)に父・小堀正次が亡くなると家督を継ぎました。1616年(元和2年)に後陽成上皇(第107代・後陽成天皇)の御所の作事奉行を命ぜられ、その後作事奉行として建築・造園に才能を発揮し、江戸城・駿府城・名古屋城・大坂城・金地院・二条城・仙洞御所・江戸城などを手掛けたました。1619年(元和5年)に近江小室藩に移封され、1624年(元和9年)に伏見奉行に任ぜられ、茶の湯三昧に過ごしたと言われています。1636年(寛永13年)に品川御殿作事奉行だった際、江戸幕府第3代将軍・徳川家光に品川御殿で献茶しました。なお小堀遠州は1647年(正保4年)に伏見奉行屋敷で亡くなりました。
●龍光院書院は寄棟造(よせむねづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
寄棟造は四方向に傾斜する屋根面を持つ屋根の形式です。寄棟造は大棟(おおむね)の両端から四方に隅棟(すみむね)が降り、2つの台形と2つの二等辺三角形で構成されます。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や正倉院(しょうそういん)・唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂が代表例です。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。
龍光院

京都観光おすすめ

  1. 錦市場(Nishiki Market)
  2. 竹林の道(Bamboo Forest Path)
  3. 嵐山
ページ上部へ戻る