龍光院昭堂・龍光院見所(修学旅行・観光)

龍光院昭堂

●龍光院昭堂は1908年(明治41年)8月1日に国の重要文化財に指定されました。
●龍光院昭堂は江戸時代前期の1649年(慶安2年)に建立されました。1611年(慶長16年)に勧請開祖・春屋宗園(しゅんおくそうえん)が亡くなり、1643年(寛永20年)に開祖・江月宗玩も亡くなり。一間四方の昭堂が建立されたが、あまりにも小堂であったことから1649年(慶安2年)に二階書院を取り壊して現在の昭堂が建立されました。昭堂は中央の柱間三間に仏壇が設えられ、中央に本尊・釈迦牟尼仏像、東に春屋宗園像、西に江月宗玩像が安置されています。
釈迦牟尼仏は仏教の開祖であるお釈迦さま(ゴータマ・シッダッタ、ガウタマ・シッダールタ、瞿曇悉達多)のことです。お釈迦さまは約2,500年前の旧暦の4月8日、インド国境に近いネパールのルンビニーの花園で、父・シャカ族の国王である浄飯王(じょうばんのう・シュッドーダナ)と母・摩耶夫人(まやふじん・マーヤー)との間に生まれました。お釈迦さまは生まれてすぐに7歩歩き、右手で天、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と唱えたとも言われています。29歳で出家し、35歳の旧暦の12月8日の夜明け前、明星出現と同時にブッダガヤの菩提樹の下で、悪魔の誘惑に負けずに悟りを開きました。その後約45年間に渡り、インド各地を回って教えを説き、クシナーラで亡くなりました。お釈迦さまの遺骸は火葬され、遺骨は各地のストゥーパに分けて祀られたそうです。
春屋宗園は1529年(享禄2年)に山城国で生まれました。建仁寺(けんにんじ)住持・驢雪鷹は(ろせつようは)、大徳寺(だいとくじ)住持・笑嶺宗きん(しょうれいそうきん)などに師事し、笑嶺宗きんの法をつぎ、1569年(永禄12年)に大徳寺111世住持になりました。今井宗久(いまいそうきゅう)・千利休(せんのりきゅう)・古田織部(ふるたおりべ)などの茶人や戦国武将などと親交を持ち、大徳寺の塔頭・三玄院などを創建しました。また「円鑑国師一黙稿(えんかんこくしいちもくこう)」も記しました。
江月宗玩は1574年(天正2年)に堺の豪商で、織田信長(おだのぶなが)や関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の茶頭として仕えた津田宗及(つだそうぎゅう)の子として堺に生まれました。幼少から大徳寺111世住持・春屋宗園(しゅんおくそうえん)に師事し、15歳で剃髪しました。春屋宗園の法をつぎ、1610年(慶長15年)に大徳寺156世住持になりました。茶道・書画に堪能で、小堀遠州(こぼりえんしゅう)・松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)ら文化人と親交を持ち、語録「欠伸稿(かんしんこう)」がよく知られています。
●龍光院昭堂は桁行六間・梁間四間で、寄棟造(よせむねづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
寄棟造は四方向に傾斜する屋根面を持つ屋根の形式です。寄棟造は大棟(おおむね)の両端から四方に隅棟(すみむね)が降り、2つの台形と2つの二等辺三角形で構成されます。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や正倉院(しょうそういん)・唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂が代表例です。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
龍光院

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