良正院本堂・良正院見どころ(修学旅行・観光)

良正院本堂

●良正院本堂は1986年(昭和61年)5月24日に国の重要文化財に指定されました。
●良正院本堂は書状(文書)や大棟鬼瓦に記された箆(へら)書によると江戸時代前期の1631年(寛永8年)に建立されました。1615年(慶長20年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の次女・督姫(とくひめ)が亡くなり、その子・池田忠雄(いけだただかつ)が母・督姫の菩提を弔う為に寺域を拡張し、本堂が建立されたと言われています。本堂は手前に3室・奥に3室を並べた六間取り方丈形式で、奥の3室の中央の仏間に本尊・阿弥陀如来(あみだにょらい)像を安置しまています。仏間西側の部屋は床が一段高く、押板床・違棚・付書院を備えた上段の間で、仏間東側の部屋にも畳床が設けられています。本堂は内部の壁や建具(襖(ふすま)・引戸(ひきど))の障壁画は狩野山楽(かのうさんらく)の実子・狩野三益(かのうさんえき・狩野伊織)が描いたと言われています。
督姫は1565年(永禄8年)または1575年(天正3年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康と側室・西郡局(鵜殿長忠の娘)の次女として三河国で生まれました。1582年(天正10年)の本能寺の変で徳川家康の同盟者であった織田信長が自刃すると甲斐国・信濃国で北条氏直と領土争いの天正壬午の乱が始まり、甲斐国・信濃国を徳川氏、上野国を北条氏が治めることで和睦し、1583年(天正11年)に督姫が北条氏直の正室として嫁ぎました。1590年(天正18年)の関白・豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏は滅亡し、夫・北条氏直は義父・徳川家康の助命嘆願で高野山に流され、翌1591年(天正19年)に夫・北条氏直が亡くなると徳川家康の下へ戻りました。1594年(文禄3年)に豊臣秀吉の肝煎りで池田輝政に再嫁し、池田忠継(いけだただつぐ)など5男2女をもうけました。1613年(慶長18年)に夫・池田輝政が亡くなり、その後相続の処理の為に駿府の父・徳川家康を訪ねました。1615年(慶長20年)の大坂冬の陣の際、父・徳川家康に会う為に滞在していた二条城で疱瘡(ほうそう・天然痘(てんねんとう))に罹って亡くなりました。
阿弥陀如来は大乗仏教の如来のひとつで、西方の極楽浄土(ごくらくじょうど)の教主とされています。阿弥陀如来は弥陀仏・阿弥陀仏・無量光仏(むりょうこうぶつ)・無量寿仏(むりょうじゅぶつ)などとも言われています。阿弥陀如来は生あるものを全てを救う如来とされています。阿弥陀如来は紀元100年頃に編纂された大乗仏教の経典「無量寿経(むりょうじゅきょう)」によると世自在王仏(せじざいおうぶつ)のもとで出家して修行していた時、法蔵比丘(ほうぞうびく)という菩薩(法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ))であったが、48の誓願(四十八願 (しじゅうはちがん))を立てて修行して仏になり、仏国土(ぶっこくど)である極楽浄土を設立して現在もそこで説法しているとされています。
●良正院本堂は桁行二間(桁行約21.4メートル)・梁間一間(梁間約15.5メートル)で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。本堂は正面が唐破風造(からはふづくり)、南面が玄関、背面で本堂に接続しています。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
唐破風は弓形のように中央部を丸みをつけ、両端が反りかえった曲線状に造形した破風です。軒唐破風は屋根本体の軒先を丸みを帯びた造形した破風です。向唐破風は屋根本体とは別に出窓のように造形した破風です。なお破風は切妻造(きりづまづくり)・入母屋造(いりもやづくり)の屋根の妻の三角形の部分です。
良正院

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