良正院表門・良正院見どころ(修学旅行・観光)

良正院表門

●良正院表門は1986年(昭和61年)5月24日に国の重要文化財に指定されました。
●良正院表門は江戸時代前期の寛永年間(1624年~1643年)頃に建立されたと言われています。1615年(慶長20年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の次女・督姫(とくひめ)が亡くなり、その子・池田忠雄(いけだただかつ)が母・督姫の菩提を弔う為に寺域を拡張し、表門が建立されたと言われています。
池田忠雄は江戸時代初期の1602年(慶長7年)12月11日に播磨姫路藩主・池田輝政(いけだてるまさ)と継室で、江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の次女・督姫(とくひめ)の六男として姫路城で生まれました。1608年(慶長13年)に7歳で元服し、徳川家康の外孫に当たることから1610年(慶長15年)に9歳で淡路洲本藩主(6万石)になったが、幼少だったことから姫路城に留まり、重臣が政務を担当しました。1614年(慶長19年)に大坂冬の陣に出陣し、家臣・横川重陳(よこがわしげのぶ)が一番槍(いちばんやり)の武功を挙げ、徳川家康から感状(かんじょう)を得ました。1615年(慶長20年)3月3日に母・督姫が亡くなり、同年3月22日に同母兄で、備前岡山藩初代藩主・池田忠継(いけだただつぐ)も17歳で亡くなるとその跡を継いで備前岡山藩2代藩主になり、淡路洲本藩は廃藩になり、阿波国徳島藩初代藩主・蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)に淡路一国が与えられました。同母兄・池田忠継が相続した母・督姫の化粧料10万石をいずれも同母弟で、播磨山崎藩主・池田輝澄(いけだ てるずみ)、播磨赤穂藩主・池田政綱(いけだまさつな)、播磨平福藩主・池田輝興(いけだてるおき)らに分与し、池田忠雄は31万5,200石になりました。その後岡山城の拡張工事・城下町の整備・新田開発・治水工事などを行い、1620年(元和6年)からの大坂城改築にも参加し、大坂城内で巨石第1位から第3位の蛸石(たこいし)・肥後石(ひごいし)・振袖石(ふりそでいし)などを運び込みました。1630年(寛永7年)に寵童であった小姓・渡辺源太夫(わたなべげんだゆう)が藩士・河合又五郎(かわいまたごろう)に殺害され、その後脱藩した河合又五郎を匿った旗本・安藤正珍(あんどうまさよし)と備前岡山藩との争いに発展したが、1632年(寛永9年)5月21日に31歳で亡くなりました。疱瘡(ほうそう・天然痘(てんねんとう))に罹って亡くなったとも言われています。その後嫡男・池田光仲(いけだみつなか)が僅か3歳で家督を継いだが、幼少だったことから因幡鳥取藩に移封され、従兄(いとこ)で、因幡鳥取藩主・池田光政(いけだみつまさ)が備前岡山藩に国替えになりました。なお池田忠雄は岡山県岡山市中区小橋にあった清泰院(せいたいいん)が墓所になっています。
●良正院表門は一間(いっけん)薬医門(やくいもん)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。表門は脇門付きです。
薬医門は2本の本柱(鏡柱)の後方に2本の控え柱を立て、その上に女梁(めうつばり)・男梁(おうつばり)を架け、切妻屋根をのせた門です。薬医門は元々公家や武家の正門などに用いられたが、扉をなくして医家に用いられたことから名称の由来になりました。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
良正院

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