立本寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

立本寺

立本寺の歴史を時代別年表にまとめ

立本寺の歴史は1321年(元亨元年)に肥後阿闍梨・日像上人が南朝初代で、第96代・後醍醐天皇から寺領を賜り、御溝傍今小路に妙顕寺龍華院を創建したのが起源です。妙顕寺龍華院は京都における日蓮宗最初の道場になりました。(時代別年表・重要人物下記参照)

【本圀寺(本国寺)】

★本圀寺(本国寺)は寺伝によると鎌倉時代中期の1253年(建長5年)に日蓮宗の宗祖・日蓮聖人(にちれんしょうにん)が鎌倉・松葉ヶ谷に小庵を結び、法華堂と号したのが起源です。その後日蓮聖人が伊豆・佐渡に配流され、本圀寺も破却されたたが、1307年(徳治2年)に本圀寺が再興され、1328年(嘉歴3年)に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(だいごてんのう)の勅願所になり、勅願「根本道場」を賜ったとも言われています。1345年(興国6年・貞和元年)に本圀寺4世・三位日静上人(にちじょうしょうにん)が北朝初代・光厳天皇(こうごんてんのう)の勅諚により、本圀寺が鎌倉から京都・六条堀川楊梅に移りました。

【立本寺の起源・始まり】

★立本寺(妙顕寺)は鎌倉時代後期の1321年(元亨元年)に肥後阿闍梨・日像上人(にちぞうしょうにん)が南朝初代で、第96代・後醍醐天皇から寺領を賜り、御溝傍今小路(上京区大宮通上長者町)に道場・妙顕寺龍華院(竜華院)を創建したのが起源です。妙顕寺龍華院は京都における日蓮宗最初の道場になりました。ちなみに日像上人は兄で、師でもあり、六老僧に数えられた日朗上人(にちろうしょうにん)に送った書状に「綾小路大宮の御坊」と記され、妙顕寺龍華院創建前に綾小路大宮(下京区)に布教拠点の法華堂があったとも言われています。日像上人は1282年(弘安5年)に亡くなった日蓮聖人から13歳の時に京都での布教というの遺命を受け、帝都弘通(ていとぐずう)を果たしました。

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【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】

★1334年(建武元年)に妙顕寺(立本寺)が後醍醐天皇の勅願寺になり、洛中洛外の宗門の第一位とされました。妙顕寺は京都における法華宗の根本をなす寺院となりました。
★1341年(興国2年・暦応4年)に光厳上皇(北朝初代・光厳天皇(こうごんてんのう))の院宣により、妙顕寺(立本寺)が四条櫛笥(しじょうくしげ)に移りました。
★1352年(正平7年・観応3年)に比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)の衆徒により、妙顕寺(立本寺)の伽藍が破却されたとも言われています。
★1358年(正平13年・延文3年)に未曾有の干ばつに見舞われた際に妙顕寺2世・大覚(だいかく・だいがく)が雨乞いの祈祷を行ない、北朝4代・後光厳天皇(ごこうごんてんのう)に効験が認められ、日蓮聖人に大菩薩(だいぼさつ)号、日朗上人・日像上人に菩薩号、大覚本人に大僧正(だいそうじょう)が与えられました。
★1387年(元中4年・嘉慶元年)に比叡山延暦寺の衆徒によって伽藍が破却され、妙顕寺(立本寺)は若狭国(福井)小浜に避難しました。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

★1393年(明徳4年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の斡旋により、妙顕寺(立本寺)が三条坊門堀川(中京区堀川御池)に伽藍が再建されました。
★1411年(応永18年)に妙顕寺(立本寺)が室町幕府4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)の祈願寺になりました。
★1413年(応永20年)に比叡山延暦寺の衆徒により、妙顕寺(立本寺)の伽藍が破却され、妙顕寺5世・月明上人(がつみょうしょうにん)は丹波に難を逃れました。
★立本寺は1416年(応永23年)に日実上人(にちじつしょうにん・玄式日実上人)が日像上人ゆかりの旧地である四条櫛笥に再興し、本応寺と号したのが起源とも言われています。日実上人は1393年(明徳4年)に旧地である四条櫛笥に寺を再興したとも言われています。(諸説あり)日実上人は日像上人開眼の鬼子母神(きしぼじん)・十羅刹女(らせつにょ)を祀り、第100代・後小松天皇(ごこまつてんのう)から綸旨(りんじ)を賜り、堂宇を建立し、「本寺を立てる(本を立てた)」という意味から立本寺と号するようになったと言われています。京都の豪商である柳の酒屋・小袖屋などの寄進を受けたとも言われています。ちなみに妙顕寺5世・月明上人は五条大宮に妙顕寺(妙本寺)を再興し、本応寺(立本寺)と対立したとも言われています。
★室町時代中期頃に第103代・後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の勅願寺になったとも言われています。

【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の歴史・出来事】

★1536年(天文5年)に天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)で焼失し、立本寺は他の日蓮宗の寺院とともに大阪・堺に避難したが、1542年(天文11年)に第105代・後奈良天皇(ごならてんのう)が法華宗帰洛の綸旨を下し、立本寺は1544年(天文13年)に新町三条に再建されました。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

★1594年(文禄3年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命より、寺町今出川(上京区立本寺前町)に移りました。寺町今出川で類焼を免れた祖師堂・開祖廟・鐘楼・経蔵などが宝永の大火後に移築されたと言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

★江戸時代前期に立本寺20世・日審上人(にっしんしょうにん)は仏教の開祖・お釈迦様の十大弟子で、説法第一と言われた富楼那(ふるな)の生まれ変わりと言われ、説法二万余座・受法者九万余人・曼荼羅十万余福と言われました。また日審上人は書き判(壷日審)が壺の形に似ており、壺から日審上人は立本寺の墓の壺の中で生まれ、母の幽霊が飴で育てたという幽霊飴伝説も生まれました。立本寺では日審上人の御影(みえい)像が子安鬼子母神(こやすきしもじん)とともに安産・子育ての守護として信仰されています。なお幽霊子育飴(幽霊子育て飴)は立本寺の寺務所などで販売されています。
★江戸時代前期に第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう)から園林堂(客殿)を賜ったとも言われています。
★江戸時代中期に鐘楼(京都市の有形文化財)が建立され、その後現在の場所に移築されました。
★1708年(宝永5年)に宝永の大火で焼失し、現在の場所に移って再建されました。
★1728年(享保13年)に客殿(京都市の有形文化財)が建立されました。
★1743年(寛保3年)に本堂(京都市の有形文化財)が建立されました。本堂には「兜の御影(かぶとのみえい)」とも言われる日蓮聖人坐像を安置しています。日蓮聖人坐像は松永久秀(まつながひさひで)の家臣・佐々木広次が信仰し、出陣の際に生還すれば一寺を建立すると祈願し、日蓮聖人坐像に兜を被せて地中に埋めたと言われています。日蓮聖人坐像は盗賊が盗もうとした際、重くて動かなかったとも言われています。
★1778年(安永7年)に表門(京都市の有形文化財)が建立されました。
★1783年(天明3年)に刹堂が焼失し、1811年(文化8年)に刹堂(京都市の有形文化財)が再建されました。
★江戸時代末期に庭園「龍華苑(京都市名勝)」が作庭されました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

★明治維新前に20の塔頭(たっちゅう)があったが、現在は4つの塔頭(正行院・教法院・光源院・大輪院)が残されています。
★1941年(昭和16年)に日蓮宗で本末が解体され、旧本山・旧末寺と言われています。

【立本寺の開山とされる日像上人】

日像上人は1269年(文永6年)に下総国(千葉)に生まれました。1275年(建治元年)に兄で、日蓮聖人の弟子・日朗に師事し、その後日蓮聖人の直弟子になりました。1293年(永仁元年)に日蓮聖人の遺命を果たすべく、京都での布教に出発しました。佐渡・北陸を経て、1294年(永仁2年)に御所に向かって上奏し、その後辻説法を行い、新興の商工業者に布教したが、延暦寺・東寺・仁和寺・南禅寺・知恩寺などの諸大寺から迫害を受け、3度にわたって追放されました。1321年(元亨元年)に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇から寺領を賜って妙顕寺を創建し、1334年(建武元年)に後醍醐天皇から法華宗号を許され、勅願寺になりました。その後足利将軍家の祈願所にもなりました。日像上人は1342年(康永元年・興国3年)に亡くなりました。

【立本寺 備考】
*参考・・・立本寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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