西行法師(さいぎょうほうし)と嵐山
西行法師と嵐山
嵐山は古来から山水の美を兼ねた景勝地で、平安時代以降から皇族・貴族らが離宮・山荘などを営み、旧跡が残されています。西行法師が平安時代後期の1140年(保延6年)に勝持寺で出家・隠棲し、その後営んだ草庵跡とも言われる西行井戸が残されています。
【嵐山 歴史・簡単概要】
嵐山は一級河川・桂川(大堰川)に架けられて渡月橋の西側、京都市西京区に位置する標高約382メートルの山です。嵐山は古くから景勝地で、平安時代(794年~1185年)以降に紅葉名所として知られるようになり、皇族・貴族らが訪れ、付近に離宮・山荘などが営まれるようになりました。また嵐山では後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇)が奈良・吉野山から桜の木を移植すると桜名所にもなりました。嵐山は「日本さくら名所100選」・「日本の紅葉の名所100選」に選ばれています。また嵐山は国の史跡・国の名勝にも指定されています。なお嵐山・嵯峨野には桂川(大堰川)が流れて渡月橋が架けられ、世界遺産である天龍寺・二尊院・常寂光寺・化野念仏寺・虚空蔵法輪寺などの寺社が点在し、竹林の道(竹林の小径)などがあり、京都随一の観光地になっています。
嵐山桜見ごろ・嵐山紅葉見ごろ
【嵐山と西行法師(さいぎょうほうし)】
嵐山は古来から山水の美を兼ねた景勝地で、平安時代(794年~1185年)以降から皇族・貴族らが離宮・山荘などを営み、それらの旧跡が残されています。嵐山嵯峨野には西行法師(さいぎょうほうし)が平安時代後期の1140年(保延6年)に勝持寺(しょうじじ)で出家・隠棲し、その後営んだ草庵跡とも言われる西行井戸が残されています。草庵は二尊院(にそんいん)近くにあったと言われています。西行井戸の横には西行法師の歌碑「牝鹿なく 小倉の山の すそ近み ただ独りすむ わが心かな」が建てられています。ちなみに歌碑の側面には「西行定家去来あはれあはれ侘のうた人はひとり住みたり」と刻まれています。西行法師が23歳の若さで、地位も妻子も捨てて出家した理由には近親者の死や悲恋などが原因とも言われています。歌碑にはその心情が表されているようです。出家後に京都の東山・嵯峨・鞍馬などに草庵を営み、神護寺(じんごじ)の文覚上人(もんがくしょうにん)を訪れたりしたが、30歳頃に陸奥に最初の長旅に出発したと言われています。なお西行法師は嵐山を「いつか又 めぐり逢ふべき 法の輪の 嵐の山を 君し出でなば」と詠んでいます。
西行井戸は京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町にあります。落柿舎(らくししゃ)北側で、天龍寺(てんりゅうじ)の塔頭(たっちゅう)・弘源寺(こうげんじ)の境外墓地東側にあります。向井去来(むかいきょらい)の墓のすぐ近くにあります。
勝持寺は飛鳥時代(592年~710年)後期の679年(白鳳8年)に修験道(しゅげんどう)の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)・役小角(えんのおづの)が第40代・天武天皇(てんむてんのう)の勅によって創建したと言われています。その後奈良時代(710年~794年)後期の791年(延暦10年)に天台宗(てんだいしゅう)の宗祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)が第50代・桓武天皇(かんむてんのう)の勅により、伽羅を再建し、一刀三礼で自ら刻んだ薬師如来(やくしにょらい)を本尊として安置し、小塩山大原寺と称したと言われています。平安時代(794年~1185年)前期の838年(承和5年)に第54代・仁明天皇(にんみょうてんのう)の勅により、塔頭49院が創建されました。その後室町時代(1336年~1573年)中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))で伽藍の多くを焼失し、天正年間(1573年~1592年)に再建されました。江戸時代に江戸幕府5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)や生母・桂昌院(けいしょういん)から帰依されました。
●西行法師は1118年(元永元年)に佐藤康清と源清経女の間に佐藤藤兵衛義清として生れました。佐藤氏は祖先に俵藤太秀郷がおり、奥州藤原氏と縁戚関係にありました。10代の頃に徳大寺実能の家人になり、1135年(保延元年)に左兵衛尉に任ぜられ、鳥羽院(第74代・鳥羽天皇)に下北面武士として仕えていました。徳大寺公重の菊の会に招かれ、歌人としても評価されていたと言われています。1140年(保延6年)に地位も妻子も捨てて、勝持寺で出家しました。出家は近親者の死や悲恋などが原因とも言われています。出家後に東山・嵯峨・鞍馬などに草庵を結び、高野山や吉野の大峰山などで修行したと言われています。30歳頃に陸奥を行脚し、1149年(久安4年)頃に高野山に入り、1168年(仁安3年)に保元の乱に敗れて讃岐に配流された崇徳院(第75代・崇徳天皇)の白峯陵参拝や真言宗の宗祖である弘法大師・空海の遺跡巡礼の為に四国・中国を行脚しました。1180年(治承4年)頃に伊勢に移りました。1186年(文治2年)に南都焼き討ちで焼失した東大寺再建の為に再び陸奥を行脚しました。鎌倉で鎌倉幕府初代将軍・源頼朝に面会し、平泉で奥州藤原氏第3代当主・藤原秀衡と面会し、伊勢に戻りました。その後河内国の弘川寺に庵居し、和歌に「願はくは 花のしたにて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃」と詠んだ通り、1190年(建久元年)3月31日に亡くなりました。
【西行法師と嵐山】
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