桜守・佐野藤右衛門(さのとうえもん)と哲学の道
桜守・佐野藤右衛門と哲学の道
哲学の道では日本画家・橋本関雪が妻・よねとともに染井吉野の苗木を京都市に寄贈しました。その後桜守として知られている桜守と言われる佐野藤右衛門らが桜の木の植え替えを行い、琵琶湖疏水事務所が桜並木などを管理しています。
【哲学の道桜見ごろ(例年時期)】
哲学の道の桜見ごろは例年4月上旬頃です。ただ桜の開花状況や見ごろ(満開)はその年の気候などによって多少前後することがあります。なお2025年1月9日、ウェザーニュースは京都で3月26日にソメイヨシノが開花すると予想しました。
哲学の道桜見ごろ
【哲学の道 歴史・簡単概要】
哲学の道は琵琶湖疏水分線沿いで、北側の銀閣寺道交差点付近の浄土寺橋から南側の若王子神社付近の若王子橋を結ぶ延長約2キロの小道です。琵琶湖疏水は京都府知事・北垣国道が京都近代化政策の一環として計画し、1890年(明治23年)に滋賀県大津市三保ヶ崎から鴨川までの第1疏水と蹴上から分岐する疏水分線が完成し、1912年(明治45年)に第2疏水が完成しました。哲学の道は1890年(明治23年)に完成した琵琶湖疏水分線の管理用道路が起源です。
【桜守・佐野藤右衛門(さのとうえもん)】
哲学の道では1921年(大正10年)に日本画家・橋本関雪(はしもとかんせつ)が妻・よね(米子)とともに京都に対する恩返しの為に300本の染井吉野(そめいよしの)の苗木を京都市に寄贈し、銀閣寺道交差点から洗心橋(せんしんばし)付近に植樹されました。橋本関雪と妻・よねは1932年(昭和7年)にも150本の染井吉野を寄贈しました。橋本関雪と妻・よねが寄贈した染井吉野は哲学の道が京都を代表する桜名所の起源となり、関雪桜と言われています。ただ染井吉野は桜の品種の中では長寿でない為、橋本関雪と妻・よねから寄贈された関雪桜は寿命が尽きたり、老化が進んだりしています。その後桜守として知られている佐野藤右衛門らが桜の木の植え替えを行い、現在は染井吉野・山桜(やまざくら)・大島桜(おおしまざくら)・里桜(さとざくら)・八重桜(やえざくら)など約430本の桜の木が植えられています。哲学の道では琵琶湖疏水事務所が桜並木などを管理しています。琵琶湖疏水事務所では桜並木の持続的な保全の為、桜に関する調査の内容を台帳に取りまとめて桜の状態管理を行っています。また琵琶湖疏水事務所では桜の老齢化に対応する為、2007年(平成19年)から桜の根が養生できるように土壌をほぐし、地被類(ニシキテイカ・ヤブランなど)の植栽を行ないました。
染井吉野は幕末(江戸時代末期)に染井村(東京都豊島区巣鴨付近)の植木職人が江戸彼岸(エドヒガン)と大島桜(オオシマザクラ)を交配させて誕生させました。染井吉野は奈良吉野山に因んで、吉野(ヨシノ)・吉野桜(ヨシノザクラ)と言われていたが、その後染井村から染井吉野と名付けられました。染井吉野は葉の出る前に径3~3.5センチの淡紅白色の花を咲かせます。花弁は広楕円形で頂部に切れ込みがあります。染井吉野はほぼ全てがクローンで、気象庁がサクラの開花・満開を判断する標本木として利用されています。
●佐野藤右衛門は京都嵯峨野にある植藤造園(うえとうぞうえん)の当主が襲名する庭師の名跡です。植藤造園は江戸時代後期の1832年(天保3年)3月1日に創業し、代々世界遺産である仁和寺(にんなじ)に植木職人として仕え、造園工事に携わってきました。植藤造園では14代目・佐野藤右衛門から滅び行く桜を憂い、日本各地の名桜の保存に努め、現在約200種の桜が保存されています。植藤造園は庭園の設計・監理・施工・管理に関する一切の業務を行い、国内だけでなく、海外でも業務を行っています。
14代目・佐野藤右衛門は京都府立植物園の主任技師・寺崎良策の教示と西本願寺新門・大谷光瑞の応援により、日本各地の桜の収集し、桜の保護と育成に努めました。
15代目・佐野藤右衛門は父に続いて桜の収集・研究に励み、1930年(昭和5年)に山桜の新種を発見し、日本の植物学の父とも言われる牧野富太郎から「佐野桜」と名付けられました。円山公園の祇園の枝垂桜も育てました。
16代目・佐野藤右衛門は祖父が始めた桜の収集・保存を継承し、「桜守」として知られています。また「桜狂い」とも称されています。フランスパリにあるユネスコ本部の日本庭園をイサム・ノグチと協力して整備し、ユネスコからピカソ・メダルが授与されました。
【桜守・佐野藤右衛門と哲学の道 備考】
*京都には多くの桜名所があり、その桜見ごろを下記リンクから確認できます。
京都桜見ごろ2025(清水寺・哲学の道・原谷苑・・・)