三十三間堂二十八部衆・三十三間堂見どころ

三十三間堂二十八部衆

●三十三間堂二十八部衆は国宝です。
●三十三間堂二十八部衆は「一代要記(いちだいようき)・鎌倉時代末期から南北朝時代初期」によると鎌倉時代の1249年(建長元年)の火災で焼失を免れたとも言われているが、1266年(文永3年)の三十三間堂再建の際に造仏されたと言われています。江戸時代初期の慶長年間(1600年~1605年)に仏師で、七条仏所慶派21代・康正(こうしょう)が修理を行いました。2018年(平成30年)7月に美術史家である伊東史朗(いとうしろう)の研究・解体修理時の彩色痕跡・慶長年間(1600年~1605年)の修理銘・細見美術館所蔵の千手観音二十八部衆画像などにより、二十八部衆の像名を変更決定したり、配置を変えたりしました。ちなみに本尊・千手観音坐像近くには四天王(婆籔仙・大弁功徳天・大梵天王・帝釈天王)が左右に2体ずつ安置されました。
二十八部衆像は寄木造で、彩色が施されています。二十八部衆像は像高が最小の153.6センチから最大の約169.7センチです。二十八部衆像は平安時代初期に唐(中国)に渡った真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が持ち帰った「千手観音造次第法儀軌(せんじゆかんのんぞうしだいほうぎき)・善無畏(ぜんむい)訳」に基づいて造仏されました。
七条仏所慶派21代・康正は戦国時代(室町時代後期)の1534年(天文3年)に康秀の子として生まれたとも言われています。大仏師大夫法印康正と称し、東寺大仏師を勤め、東寺・鎮守八幡宮の武内宿禰像を修理しました。江戸時代初期の1602年(慶長7年)から関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)の命で東寺・金堂の薬師如来像などを造仏しました。
●三十三間堂二十八部衆は千手観音(せんじゅかんのん)の眷属(けんぞく)で、千手観音を信仰する者を守る護法善神とされています。
二十八部衆は那羅延堅固(ならえんけんご)・難陀竜王(なんだりゅうおう)・摩ご羅(まごら)・緊那羅(きんなら)・迦楼羅王(かるらおう)・乾闥婆(けんだつば)・毘舎闍(びしゃじゃ)・散支大将(さんしたいしょう)・満善車鉢(まんぜんしゃはつ)・摩尼跋陀羅(まにばだら)・毘沙門天(びしゃもんてん)・毘楼勒叉天(びるろくしゃてん)・婆藪仙(ばそうせん)・大弁功徳天(だいべんくどくてん)・大梵天王(だいぼんてんおう)・帝釈天王(たいしゃくてんおう)・提頭頼た王(だいずらたおう)・毘楼博叉天(びるばくしゃてん)・薩遮摩和羅(さしゃまわら)・五部浄居(ごぶじょうご)・金色孔雀王(こんじきくじゃくおう)・神母女(じんもにょ)・金毘羅(こんぴら)・畢婆伽羅(ひばから)・阿修羅(あしゅら)・伊鉢羅(いはつら)・裟羯羅竜王(さがらりゅうおう)・密迹金剛士(みっしゃくこんごうし)です。
三十三間堂見どころ

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