三十三間堂風神雷神像・三十三間堂見どころ

三十三間堂風神雷神像

●三十三間堂風神雷神像は国宝です。
●三十三間堂風神雷神像は鎌倉時代に造仏され、日本最古の風神雷神像と言われています。2018年(平成30年)7月に鎌倉時代の版画などの古記録に基づき、風神雷神像の位置が鎌倉時代当時の配置に戻されました。現在、風神像は北側(向かって右側)、雷神像は南側(向かって左側)に戻されたが、1934年(昭和9年)の修理後は風神像が南側(向かって左側)、雷神像が北側(向かって右側)に安置されていました。なお風神雷神像は古来の五行説に基づき、安置される方向によって色彩が施されているそうです。ちなみに風神像には緑色の色彩が施されています。
木造風神雷神像は寄木造で、彩色が施されています。風神像は像高約111.5センチで、風袋を背負い、右膝を突き、左膝を立てています。風神像は手指は4本、足指は2本です。雷神像は像高約100.0センチで、連鼓を背負い、両手に桴(ばち)を持ち、左膝を突き、右膝を立てています。雷神像は手指は3本、足指は2本です。
風神雷神は仏教で仏法を守り、悪を懲らしめて善を勧め、風雨を調える神とされています。風神雷神はインド最古の聖典「リグ・ヴェーダ」に登場する神で、自然現象を神格化した神々です。風神は悪神を追い払い、富貴栄達を授ける神、雷神は水神とされていました。
●三十三間堂風神雷神像は江戸時代初期の画家・俵屋宗達(たわらやそうたつ)の風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)のモデルになったとも言われています。風神雷神図屏風は建仁寺(けんにんじ)が所蔵していたが、京都国立博物館に現在寄託されています。
風神雷神図は元々豪商・打它公軌(うだきんのり)が建仁寺派の寺院・妙光寺(みょうこうじ)の再興を記念し、絵師・俵屋宗達(たわらやそうたつ)に製作を依頼したものです。江戸時代前期の1639年(寛永16年)頃に妙光寺に奉納され、その後妙光寺から建仁寺に寄贈されました。
絵師・俵屋宗達は戦国時代(室町時代後期)の1570年頃に京都の富裕な町衆に生まれたとも言われています。狩野永徳(かのうえいとく)の画法などを会得し、俵屋という屋号を持つ絵屋または扇屋を主宰し、自らも描きました。公卿・烏丸光広(くぎょうからすまみつひろ)、茶人・千少庵(せんのしょうあん)、書家・陶芸家・芸術家である本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)らと交友したと言われています。1602年(慶長7年)に福島正則(ふくしままさのり)の命による平家納経の修復に関わり、1630年(寛永7年)に第108代・後水尾天皇から屏風3双の制作を依頼されたとも言われています。1630年(寛永7年)に町の絵師として異例の法橋(ほっきょう)の位が与えられました。俵屋宗達は金銀泥を駆使した装飾性の強い斬新な画法が特徴で、尾形光琳(おがたこうりん)とともに並び称されました。俵屋宗達は伝統的な大和絵を独自の新しい感覚で復興させたも言われています。国宝には風神雷神図(建仁寺・京都国立博物館寄託)・蓮池水禽図(京都国立博物館)・源氏物語関屋及び澪標図(静嘉堂文庫)、重要文化財には養源院襖絵杉戸絵・西行法師行状絵詞(出光美術館など)・舞楽図屏風(醍醐寺)・芦鴨図衝立(醍醐寺)・扇面貼交屏風(醍醐寺)などがあります。なお俵屋宗達は1643年(寛永20年)頃に亡くなったとも言われています。
建仁寺は鎌倉時代前期の1202年(建仁2年)に鎌倉幕府2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)が寺域を寄進し、栄西禅師(えいさいぜんじ・ようさいぜんじ)が宋・百丈山を模して創建しました。建仁寺の名称は第83代・土御門天皇の勅許により、禅寺初の年号寺院・建仁寺になりました。
三十三間堂見どころ

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