三十三間堂後白河上皇院政庁「法住寺殿」址碑・三十三間堂見どころ

三十三間堂後白河上皇院政庁「法住寺殿」址碑

●三十三間堂後白河上皇院政庁「法住寺殿」址碑は境内北側に建立されています。「法住寺殿」は平安時代後期に後白河上皇(第77代・後白河天皇)が天皇退位後に約30年に渡って院政を行った政庁(離宮・院御所)です。「法住寺殿」は七条殿・東山御所などとも言われました。「法住寺殿」は後白河上皇の天皇退位直後の1158年(保元3年)8月頃から造営が開始されたとも言われています。「法住寺殿」は北側が六条大路(六条通)、南側が八条坊門小路(東海道線南)、東側が東山の麓、西側が鴨川河岸にまで及んだと言われています。そして北部に院政を行った北殿、南部に常の御所と言われる南殿があり、南殿には三十三間堂などの寺院なども建立されていました。後白河上皇は1161年(応保元年)4月から移住し、後白河上皇の女御で、第80代・高倉天皇の生母・平滋子(建春門院)も同居しました。その後1183年(寿永2年)に後白河上皇と対立するようになった木曽義仲の夜襲・法住寺合戦で焼失しました。ちなみに後白河上皇は摂政で、近衛家2代当主・近衛基通(このえもとみち)の五条東洞院邸に幽閉されました。
第77代・後白河天皇(後白河上皇)は1127年(大治2年)10月18日に鳥羽上皇(第74代・鳥羽天皇)と中宮・藤原璋子(ふじわらのしょうし)の第4皇子として生まれました。11月14日に親王宣下を受けて「雅仁」と命名され、1139年(保延5年)12月27日に元服して二品に叙せられました。1129年(大治4年)に曽祖父・白河法皇(第72代・白河天皇)が崩御すると父・鳥羽上皇が院政を開始し、藤原得子(ふじわらのとくし)を寵愛したことから第75代・崇徳天皇に譲位を迫り、1142年(永治元年)に父・鳥羽上皇と藤原得子の子である第9皇子・体仁親王(第76代・近衛天皇)が天皇に即位したが、1155年(久寿2年)に第76代・近衛天皇が崩御し、藤原得子の養子となっていた第77代・後白河天皇の第1皇子・子守仁親王(第78代・二条天皇) が即位するまでの中継ぎとして、立太子を経ないまま29歳で天皇(第77代・後白河天皇)に即位しました。第77代・後白河天皇は皇位継承がもとで起こった保元の乱(ほうげんのらん)で勝利したが、1158年(保元3年)に在位僅か3年で皇太子・子守仁親王 (第78代・二条天皇) に譲位し、第78代・二条天皇、第79代・六条天皇、第80代・高倉天皇、第81代・安徳天皇、第82代・後鳥羽天皇の5代・30余年にわたって院政を行いました。(停止・中断あり)また1169年(仁安4年)に離宮・法住寺殿で出家して法皇になりました。院政期間中には平治の乱(へいじのらん)・源平の合戦を経て、鎌倉幕府が成立しました。なお第77代・後白河天皇は鎌倉時代の1192年(建久3年)4月26日に崩御しました。
法住寺は989年(永祚元年)に太政大臣・藤原為光が妻と第65代・花山天皇の女御だった娘・藤原し子(弘徽殿の女御)の菩提を弔う為に創建したのが起源と言われています。その後1032年(長元5年)の火災で焼失しました。1161年(永暦2年)に後白河上皇(第77代・後白河天皇)が法住寺跡に離宮・法住寺殿を造営し、1160年(永暦元年)に新日吉神社、1163年(長寛元年)に三十三間堂が創建され、1176年(安元2年)に後白河上皇の女御・建春門院(平滋子)が亡くなると建春門院の御陵として法華堂が建立されました。しかし1183年(寿永2年)に木曽義仲によって焼き討ちされ、1192年(建久3年)に後白河上皇が崩御すると新たに法華堂が建立され、上皇の御陵に定められました。その後三十三間堂の本坊で、天台三門跡に数えられた妙法院門跡の院家として、法住寺陵と妙法院歴代門跡法親王の墓を守ってきました。
三十三間堂見どころ

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