三十三間堂法然塔・三十三間堂見どころ(修学旅行)

三十三間堂法然塔

●三十三間堂法然塔には6字の名号(みょうごう)「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」が刻まれ、名号石とも言われています。「南無阿弥陀仏」は鎌倉時代前期の1204年(元久元年)に第83代・土御門天皇が後白河法皇(第77代・後白河天皇)の13回忌法要を行った際、浄土宗(じょうどしゅう)の宗祖・法然上人(ほうねんしょうにん)が念仏三昧行である六時礼讃(ろくじらいさん)を修し、人々に書写して分け与えたと言われています。三十三間堂法然塔は「法然上人行状絵図(ほうねんしょうにんぎょうじょうえず)(国宝)」に記される法然上人の霊場の一つです。
「南無阿弥陀仏」は西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど)の教主・阿弥陀仏(阿弥陀如来(あみだにょらい))に帰依するという意味です。「南無阿弥陀仏」は浄土宗などで唱えると阿弥陀仏の浄土に救済されるとしています。
法然上人は平安時代後期の1133年(長承2年)4月7日に美作国(岡山県)久米南条稲岡荘の押領使(おうりょうし)・漆間時国(うるまときくに)と秦氏君(はたうじのきみ)清刀自の子として生まれたと言われています。1141年(保延7年)に9歳で父・漆間時国が殺害され、母方の叔父で、僧侶・観覚(かんがく)のもとで剃髪し、1145年(天養2年)に15歳で比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)に登って源光(げんこう)に師事して天台(てんだい)を学びました。しかし1150年(久安6年)に教学などに疑問を感じ、西塔黒谷・叡空(えいくう)のもとで修業し、法然房源空(ほうねんぼうげんくう)と称しました。その後20年間に渡って修学し、中国浄土教の僧・善導(ぜんどう)の「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)」や天台宗の僧である恵心僧都(えしんそうず)・源信(げんしん)の「往生要集(おうじょうようしゅう)」により、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の名号を口に出して称える称名念仏(しょうみょうねんぶつ)に専修する悟りに達し、浄土宗を開きました。京都吉水(よしみず)に草庵を結んで老若貴賤(ろうにやくきせん)に布教したが、女官の出家を契機に南都北嶺(興福寺(こうふくじ)・比叡山延暦寺)から迫害を受け、1207年(承元元年)に讃岐に配流され、その後赦免されて京都に戻りました。なお法然上人は1212年(建暦2年)1月25日に東山大谷(京都市東山区)で亡くなりました。
第77代・後白河天皇は1127年(大治2年)10月18日に鳥羽上皇(第74代・鳥羽天皇)と中宮・藤原璋子(ふじわらのしょうし)の第4皇子として生まれました。11月14日に親王宣下を受けて「雅仁」と命名され、1139年(保延5年)12月27日に元服して二品に叙せられました。1129年(大治4年)に曽祖父・白河法皇(第72代・白河天皇)が崩御すると父・鳥羽上皇が院政を開始し、藤原得子(ふじわらのとくし)を寵愛したことから第75代・崇徳天皇に譲位を迫り、1142年(永治元年)に父・鳥羽上皇と藤原得子の子である第9皇子・体仁親王(第76代・近衛天皇)が天皇に即位したが、1155年(久寿2年)に第76代・近衛天皇が崩御し、藤原得子の養子となっていた第77代・後白河天皇の第1皇子・子守仁親王(第78代・二条天皇) が即位するまでの中継ぎとして、立太子を経ないまま29歳で天皇(第77代・後白河天皇)に即位しました。第77代・後白河天皇は皇位継承がもとで起こった保元の乱(ほうげんのらん)で勝利したが、1158年(保元3年)に在位僅か3年で皇太子・子守仁親王 (第78代・二条天皇) に譲位し、第78代・二条天皇、第79代・六条天皇、第80代・高倉天皇、第81代・安徳天皇、第82代・後鳥羽天皇の5代・30余年にわたって院政を行いました。(停止・中断あり)また1169年(仁安4年)に離宮・法住寺殿で出家して法皇になりました。院政期間中には平治の乱(へいじのらん)・源平の合戦を経て、鎌倉幕府が成立しました。なお第77代・後白河天皇は鎌倉時代の1192年(建久3年)4月26日に崩御しました。
三十三間堂見どころ

ページ上部へ戻る