三十三間堂蓮華王院本堂・三十三間堂見どころ

●三十三間堂蓮華王院本堂は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財、1952年(昭和27年)3月29日に国宝に指定されました。
●三十三間堂蓮華王院本堂は平安時代後期の1165年(長寛2年)に後白河上皇(第77代・後白河天皇)が平清盛(たいらのきよもり)に資材協力を命じ、離宮・法住寺殿(ほうじゅうじどの)の一画に建立しました。しかし鎌倉時代の1249年(建長元年)に焼失し、1266年(文永3年)に後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇)が再建しました。江戸時代前期の1649年(慶安2年)~1651年(慶安4年)頃に正面に7間の向拝が造られました。
第77代・後白河天皇(後白河上皇)は1127年(大治2年)10月18日に鳥羽上皇(第74代・鳥羽天皇)と中宮・藤原璋子(ふじわらのしょうし)の第4皇子として生まれました。11月14日に親王宣下を受けて「雅仁」と命名され、1139年(保延5年)12月27日に元服して二品に叙せられました。1129年(大治4年)に曽祖父・白河法皇(第72代・白河天皇)が崩御すると父・鳥羽上皇が院政を開始し、藤原得子(ふじわらのとくし)を寵愛したことから第75代・崇徳天皇に譲位を迫り、1142年(永治元年)に父・鳥羽上皇と藤原得子の子である第9皇子・体仁親王(第76代・近衛天皇)が天皇に即位したが、1155年(久寿2年)に第76代・近衛天皇が崩御し、藤原得子の養子となっていた第77代・後白河天皇の第1皇子・子守仁親王(第78代・二条天皇) が即位するまでの中継ぎとして、立太子を経ないまま29歳で天皇(第77代・後白河天皇)に即位しました。第77代・後白河天皇は皇位継承がもとで起こった保元の乱(ほうげんのらん)で勝利したが、1158年(保元3年)に在位僅か3年で皇太子・子守仁親王 (第78代・二条天皇) に譲位し、第78代・二条天皇、第79代・六条天皇、第80代・高倉天皇、第81代・安徳天皇、第82代・後鳥羽天皇の5代・30余年にわたって院政を行いました。(停止・中断あり)また1169年(仁安4年)に離宮・法住寺殿で出家して法皇になりました。院政期間中には平治の乱(へいじのらん)・源平の合戦を経て、鎌倉幕府が成立しました。なお第77代・後白河天皇は鎌倉時代の1192年(建久3年)4月26日に崩御しました。
平清盛は1118年(永久6年)2月10日に伊勢平氏の棟梁・平忠盛(たいらのただもり)と白河院女房の長男として生まれました。平清盛は白河法皇(第72代・白河天皇)の落胤とも言われています。(諸説あり)1129年(大治4年)に12歳で従五位下・左兵衛佐に叙任され、1137年(保延3年)に父・忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後守に任じられ、1153年(仁平3年)に父・忠盛が亡くなると平氏一門の棟梁になりました。1156年(保元元年)の保元の乱で源義朝(みなもとのよしとも)とともに第77代・後白河天皇側について勝利し、1159年(平治元年)の平治の乱で源義朝らの源氏一族などを追討して対立勢力を一掃し、1167年(仁安2年)に従一位・太政大臣になりました。1171年(承安元年)に娘・徳子(建礼門院)が第80代・高倉天皇の女御として入内し、翌1172年(承安2年)2月10日に徳子が中宮になり、11月12日に言仁親王(第81代・安徳天皇)が生まれました。平氏一門は隆盛を極め、平時忠(たいらのときただ)をして「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめした。1177年(治承元年)に平氏打倒の謀議・鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)が起こると後白河法皇(第77代・後白河天皇)に離宮・鳥羽殿(とばどの)に幽閉し、1180年(治承4年)に第80代・高倉天皇が譲位して言仁親王が第81代・安徳天皇に即位しました。なお平清盛は1181年(治承5年)3月20日に亡くなり、1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いに敗れて平氏は滅亡しました。
●三十三間堂蓮華王院本堂は内陣の柱間(柱の間数(まかず))が「33」あることから三十三間堂と言われています。なお三十三間堂蓮華王院本堂は桁行35間・梁間5間で、外部から見ると柱間が「35」になります。
三十三間堂見どころ

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