三十三間堂写経奉納塔・三十三間堂見どころ

三十三間堂写経奉納塔

●三十三間堂写経奉納塔は1995年(平成7年)5月に境内の東側に建立されました。写経奉納塔は(昭和60年)に罹災した南大門(重要文化財)の修復の為に写経勧募が始められ、奉納された写経の永代供養を目的として建立されました。ちなみに写経の奉納は現在も続けられ、毎秋に供養の法要が行われています。
写経は仏教で経典の文を書き写しすることです。また写経は書き写された経典のことも指します。初期の仏教ではお釈迦様が残した言葉・経典を口承(暗誦)によって伝えていたが、その後文字によって書き写されるようになりました。スリランカの伝承では紀元前1世紀頃から書き写しが始まったとも言われています。紀元前後の「道行般若経(どうぎょうはんにゃきょう)・「般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう)」・「法華経(ほけきょう)」などの初期の大乗経典に写経に功徳(くどく)ありと強調され、紀元前後頃から写経が行われるようになったとも言われています。中国では六朝時代(222年~589年)に写経が定型化され、隋(581年~618年)・唐(618年~907年)の時代に盛んにが行われるようになりました。日本では飛鳥時代の673年(天武天皇2年)に飛鳥寺(あすかでら・法興寺(ほうこうじ))・薬師寺(やくしじ)・大官大寺(だいかんだいじ・大安寺(だいあんじ))とともに飛鳥の四大寺に数えられた川原寺(かわらでら)で「一切経(大蔵経)」の写経が行われたのが最初とも言われています。なお一般的に日本では写経と言えば、「般若心経(はんにゃしんぎょう・般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう))」を書き写すことを言います。
●三十三間堂南大門は安土桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が建立したとも言われていたが、梁 (はり) の虹梁(こうりょう)の刻銘によると江戸時代初期の1600年(慶長5年)に豊臣秀吉の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が建立したとも言われています。
豊臣秀頼は安土桃山時代の1593年(文禄2年)8月29日に関白・豊臣秀吉と側室・淀殿(よどどの)の間の第2子として大坂城で生まれました。秀頼は豊臣秀吉57歳の時の子で、健康な成長を願って、一旦捨てた形にして家臣・松浦重政(まつうらしげまさ)が拾い上げました。幼名は拾丸(ひろいまる)で、乳母は宮内卿局(くないきょうのつぼね)・右京大夫局(うきょうのだいぶのつぼね)・正栄尼(しょうえいに)でした。豊臣秀吉は秀頼誕生直後に関白・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の娘と婚約させようとしたが、1595年(文禄4年)に秀次の関白職を奪って自刃させ、秀頼の継嗣としての地位を確定させました。秀頼は秀吉とともに伏見城に住んでいたが、1598年(慶長3年)8月に秀吉が死去すると秀頼は家督を継ぎ、秀吉の遺命によって大坂城に移りました。秀頼は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)後に摂津・河内・和泉を知行する一大名になったが、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の孫で、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の子・千姫(せんひめ)と結婚しました。しかし1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)によって大坂の陣が勃発し、豊臣秀頼は1615年(慶長20年)6月4日に母・淀殿らとともに自害しました。
三十三間堂見どころ

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