三十三間堂太閤椿・三十三間堂見どころ(修学旅行)

三十三間堂太閤椿

●三十三間堂太閤椿は安土桃山時代に加藤清正(かとうきよまさ)が関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)に献上したとも言われています。三十三間堂太閤椿は大盃(おおさかずき)という品種で、例年3月下旬頃から4月上旬頃に見ごろを迎えます。
加藤清正は戦国時代(室町時代後期)の1562年(永禄5年)7月25日に刀鍛冶・加藤清忠(かとうきよただ)と鍛冶屋清兵衛の娘・伊都の子として生まれました。父・加藤清忠が3歳の時に亡くなり、母・伊都が関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の生母・仲(なか・大政所)と従姉妹だったことから1573年(天正元年)に近江長浜城城主・豊臣秀吉の小姓として仕えました。その後近江の守護大名・佐々木氏の一族である山崎片家(やまざきかたいえ)の娘を正室にしました。豊臣秀吉の直轄領の代官を務め、1582年(天正10年)に明智光秀(あけちみつひで)が織田信長(おだのぶなが)に謀反を起こした本能寺の変(ほんのうじのへん)が起こると豊臣秀吉に従って山崎の戦い(やまざきのたたかい)に参加しました。翌1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で敵将・山路正国(やまじまさくに)を討ち取って武功を挙げ、賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)に数えられ、3千石の所領を与えられました。1585年(天正13年)に豊臣秀吉が関白に就任すると従五位下・主計頭に叙任されました。1586年(天正14年)からは九州平定に参加し、肥後国領主・佐々成政(さっさなりまさ)が改易されると肥後北半国19万5千石を与えられ、熊本城を改修しました。1592年(天正20年)から文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)に参加したが、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると帰国しました。その後江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に接近し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)で徳川方(東軍)に参加し、西軍の小西行長(こにしゆきなが)の旧領・肥後南半を与えられ、52万石の大名になりました。1603年(慶長8年)に豊臣姓を下賜され、1605年(慶長10年)に従五位上・侍従兼肥後守に叙任されました。1611年(慶長16年)3月に豊臣秀頼(とよとみひでより)と徳川家康の会見を斡旋しました。なお加藤清正は1611年(慶長16年)8月2日に亡くなりました。
豊臣秀吉は戦国時代(室町時代後期)の1537年(天文6年)3月17日(旧暦2月6日)に織田信長(おだのぶなが)の足軽(百姓)・木下弥右衛門(きのしたやえもん)と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(仲・天瑞院(てんずいいん))の間に生まれました。尾張国愛知郡中村郷中中村(名古屋市中村区)で生まれたとも言われています。先ず今川氏の家来で、引馬城(ひくまじょう)の支城・頭陀寺城(ずだじじょう)城主・松下之綱(まつしたゆきつな)に仕え、1554年(天文23年)頃から戦国大名・織田信長(おだのぶなが)に仕えました。1561年(永禄4年)に浅野長勝(あさのながかつ)の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後数々の戦功を重ねて頭角を現し、1573年(天正元年)に浅井氏が滅亡すると長浜城(ながはまじょう)城主になりました。1582年(天正10年)に明智光秀(あけちみつひで)が織田信長に謀反を起こした本能寺の変(ほんのうじのへん)後、山崎の戦い(やまざきのたたかい)で明智光秀を破り、京都の支配権を掌握しました。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で柴田勝家(しばたかついえ)を破りました。その後四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げました。ちなみに1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。その後唐入りを目指し、1592年(天正20年)から文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)が始まりました。なお豊臣秀吉は1598年(慶長3年)9月18日(旧暦8月18日)に62歳で伏見城内で亡くなりました。
三十三間堂見どころ

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