三千院往生極楽院・三千院見どころ(修学旅行・観光)

三千院往生極楽院

●三千院往生極楽院の阿弥陀堂は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財に指定されました。
●三千院往生極楽院の阿弥陀堂は平安時代後期の1148年(久安4年)に建立されたと言われています。阿弥陀堂は寺伝によると平安時代中期の985年(寛和元年)に「往生要集(おうじょうようしゅう)」の著者である恵心僧都(えしんそうず)・源信(げんしん)が姉・安養尼(あんように・願証尼(がんしょうに))とともに建立したとも言われています。その後江戸時代前期の1616年(元和2年)に修理され、外側は建立当時のものはほとんど失われたと言われています。阿弥陀堂は像高約2.3メートルの阿弥陀如来(あみだにょらい)を中尊、観音菩薩(かんのんぼさつ)を左脇侍、勢至菩薩(せいしぼさつ)を右脇侍とする阿弥陀三尊像を堂内一杯に安置しています。
恵心僧都・源信は平安時代中期の942年(天慶5年)に父・卜部正親(うらべまさちか)と母・清原氏の間に大和国(奈良)北葛城郡当麻に生まれたとも言われています。948年(天暦2年)に父が亡くなり、950年(天暦4年)に信仰心の篤い母の影響で比叡山(ひえいざん)中興の祖で、元三大師(がんざんだいし)とも言われる慈恵大師(じえだいし)・良源(りょうげん)のもとで学び、955年(天暦9年)に得度しました。956年(天暦10年)に「称讃浄土経(しょうさんじょうどきょう)」を講じ、第62代・村上天皇(むらかみてんのう)から法華八講(ほっけはっこう)の講師に選ばれました。下賜された品を故郷の母に送ったが、母が諌める和歌を添えて送り返し、母の諫言(かんげん)に従って比叡山横川(よかわ)の恵心院(よかわえしんいん)に隠棲して修行し、横川僧都・恵心僧都とも称されました。978年(天元元年)に「因明論疏四相違略注釈(いんみょうろんしょしそういりゃくちゅうしゃく)」、985年(寛和元年)に「往生要集(おうじょうようしゅう)」を記しました。「往生要集」は宋(中国)にも伝わり、中国の仏教界でも知られるようになりました。1004年(寛弘元年)に太政大臣・藤原道長(ふじわらのみちなが)が帰依して権少僧都(ごんしょうそうず)になるが、1005年(寛弘2年)に母お教えに従って僅か1年で権少僧都を辞退しました。1014年(長和3年)に「阿弥陀経略記(あみだきょうりゃっき)」を著し、1017年(寛仁元年)に阿弥陀如来像の手に結び付けた糸を手にし、合掌しながら亡くなりました。
●三千院往生極楽院の阿弥陀堂は桁行四間・梁間三間で、入母屋造(いりもやづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。阿弥陀堂は天井を舟底型に折り上げ、その天井に極楽浄土に舞う天女や諸菩薩の姿が極彩色で描かれ、極楽浄土そのままを表しています。ただ現在は肉眼では判別しにくくなっています。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。飛鳥時代(593年~709年)に建立された法隆寺(ほうりゅうじ)の五重塔(国宝)の屋根にも用いられています。
三千院見どころ

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