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晴明神社一条戻橋・晴明神社見所(修学旅行・観光)
晴明神社一条戻橋
●晴明神社一条戻橋はかつて堀川に架かっていた旧・一条戻橋(いちじょうもどりばし)の欄干の親柱を境内に移し、旧・一条戻橋を再現したものです。一条戻橋では陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)の父・安倍保名(あべのやすな)が芦屋道満(あしやどうまん)の弟に殺害されたが、安倍晴明が呪法で父を蘇生させたとも、二人の式神を一条戻橋の袂に隠したとも言われています。
安倍晴明は平安時代前期の921年(延喜21年)2月21日に大膳大夫(だいぜんのだいぶ)・安倍益材(あべのますき)または淡路守(あわじのかみ)・安倍春材(あべのはるき)の子として摂津国阿倍野(大阪市阿倍野区)または大和安倍(国奈良県桜井市安倍)に生まれたとも言われています。いずれも陰陽師(おんみょうじ)である賀茂忠行(かものただゆき)・賀茂保憲(かものやすのり)に陰陽道(おんみょうどう)を学び、天文道(てんもんどう)を伝授されたと言われています。948年(天暦2年)に宮中で宿直・ 警護などに従事した大舎人(おおとねり)になり、960年(天徳4年)に40歳で成績優秀な天文得業生(てんもんとくごうしょう)になり、第62代・村上天皇に占いを命じられ、970年(安和3年・天禄元年)頃に教官である天文博士(てんもんはかせ)になりました。977年(貞元2年)に賀茂保憲が亡くなると頭角を現し、979年(天元2年)に皇太子・師貞親王(第65代・花山天皇)の命で和歌山・那智山(なちさん)の天狗を封ずる儀式を行いました。993年(正暦4年)に急に病気になった第66代・一条天皇の禊(みそぎ)を奉仕し、回復したことから正五位上に叙され、1004年(寛弘元年)に干ばつが続いたことから第66代・一条天皇の命によって雨乞いの五龍祭(ごりゅうさい)を行うと雨が降り、贈り物である被物(かずけもの)を賜りました。その後主計権助(かずえのごんのすけ)・左京権大夫(さきょうのだいぶ)・穀倉院別当(こくそういんべっとう)・播磨守( はりまのかみ )などを歴任し、従四位下に昇叙しました。なお安倍晴明は1005年(寛弘2年)10月31日に85歳で亡くなりました。
一条戻橋は794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇による平安京遷都の際、一条大路を横切る堀川に架けられ、一条橋・土御門橋(つちみかどばし)・土御門堀川橋(つちみかどほりかわばし)などと言われました。その後平安時代中期の918年(延喜18年)に比叡山(ひえいざん)の呪術憎(じゅじゅつそう)・浄蔵貴所(じょうじょうきしょ)が一時的に生き返った父・三善清行(みよしのきよゆき)と対面してからは戻橋(もどりばし)と言われるようになりました。浄蔵貴所は熊野で修行していたが、父が危篤という知らせを受けて京都に戻ったが、死に目には間に合わず、一条橋で父の葬列と出会って「父の魂を戻して欲しい」と読経したところ父は一時的に息を吹き返して最後の対面をすることができたそうです。ちなみに浄蔵貴所は八坂の塔(法観寺の五重塔)が傾いた際に法力で元に戻したとも言われています。なお一条戻橋では安土桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の怒りを買って自刃した茶人・千利休(せんのりきゅう)の首が晒されました。また清和源氏3代目・源頼光(みなもとのよりみつ)の四天王に数えられた渡辺綱(わたなべのつな)が鬼女の片腕を斬り落としたとも言われています。
【晴明神社 備考】
*参考・・・京都・晴明神社(アクセス・見どころ・・・)ホームページ
●晴明神社の歴史(創建から現在)を紹介しています。
晴明神社歴史(一条天皇・安倍晴明)
●晴明神社の見どころ(本殿・厄除桃など)を紹介しています。
晴明神社見どころ(本殿・厄除桃など)