清凉寺阿弥陀堂・清凉寺見どころ

清凉寺阿弥陀堂

●清凉寺阿弥陀堂は江戸時代末期(幕末)の1863年(文久3年)に再建されたとも言われています。清凉寺阿弥陀堂は第52代・嵯峨天皇の第8皇子で、左大臣・源融(みなもとのとおる)が山荘・棲霞観(せいかかん)を造営し、その後棲霞寺(せいかじ)と改めましたが起源とも言われています。清凉寺阿弥陀堂にはかつて阿弥陀三尊坐像が安置され、阿弥陀如来像は「光源氏移し顔」とも言われました。
棲霞寺は896年(寛平8年)の源融の一周忌の際、源融が生前に造仏を願ったが、果たせずに亡くなり、子息が阿弥陀三尊像を造仏し、阿弥陀三尊像を安置した阿弥陀堂を棲霞寺と称したのが起源です。その後945年(天慶8年)に第60代・醍醐天皇の第4皇子・重明親王(しげあきらしんのう)妃が新堂を建立し、等身大の釈迦像を安置し、釈迦堂の名称になったとも言われています。
源融は平安時代前期の822年(弘仁13年)に第52代・嵯峨天皇と女官・大原全子(おおはらのぜんし)の第8皇子として生まれました。838年(承和5年)に元服して正四位下に叙せられ、義兄で、第54代・仁明天皇の養子になりました。源の姓を賜って臣籍に下り、嵯峨源氏融流初代になりました。29歳で太政官の最高幹部で国政を担う公卿(くぎょう)に列し、856年(斉衡3年)に参議(さんぎ)になりました。その後870年(貞観12年)に大納言(だいなごん)になり、872年(貞観14年)に太政官の首班に立って左大臣(さだいじん)になりました。しかし876年(貞観18年)に第57代・陽成天皇が即位し、約15歳年下で、太政官の席次も下位の右大臣(うだいじん)・藤原基経(ふじわらのもとつね)が天皇の外戚として摂政(せっしょう)になると自宅に引き籠りました。884年(元慶8年)に第57代・陽成天皇が譲位する際、皇位を望んだが、藤原基経に止められたとも言われています。源融は鴨川のほとりに豪壮な別荘・六条河原院を営んで、河原左大臣と言われ、豪奢な生活を送りました。ちなみに嵯峨の別荘・栖霞観(せいかかん)は後に清凉寺(せいりょうじ)、宇治の別荘は後に平等院(びょうどういん)になりました。なお源融は895年(寛平7年)9月17日に亡くなりました。
一般的に阿弥陀堂は阿弥陀如来を本尊として安置する堂塔です。奈良時代に奈良・東大寺(とうだいじ)阿弥陀堂や法華寺(ほっけじ)浄土院が建立され、阿弥陀悔過(けか)などの法要が行われました。平安時代中期から貴族に浄土信仰の広まり、極楽浄土を現前させたい願望から多く建立されました。京都府宇治市の平等院(びょうどういん)鳳凰堂(国宝)・京都府木津川市の浄瑠璃寺(じょうるりじ)本堂(国宝)・岩手県平泉町の中尊寺(ちゅうそんじ)金色堂(国宝)などが知られています。
●清凉寺阿弥陀堂は桁行五間・梁間六間で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
清凉寺見どころ

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