清凉寺大方丈・清凉寺見どころ

清凉寺大方丈

●清凉寺大方丈は江戸時代前期の1637(寛永14年)に焼失し、江戸時代中期の享保年間(1716年~1736年)に再建されたと言われています。清凉寺大方丈はかつて江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)と一照院の生母・おちかが寄進して一照院の位牌所として建立されたと言われています。
一照院(市姫(いちひめ))は1607年(慶長12年)1月28日に江戸幕府初代将軍・徳川家康の五女として生まれました。一照院は徳川家康66歳の時の最後の子で、織田信長(おだのぶなが)の妹で、絶世の美女と謳われたお市の方(おいちのかた)のような美女になってほしいと願って、市姫と名付けられました。生後間もない1607年(慶長12年)2月8日に伊達政宗(だてまさむね)の嫡男・伊達忠宗(だてただむね)と婚約したが、1610年(慶長15年)2月12日に亡くなりました。
徳川家康は戦国時代(室町時代後期)の1543年(天文11年)に三河国額田郡岡崎城主・松平広忠(まつだいらひろただ)と於大の方(おだいのかた)の長男として生まれました。幼少期に織田氏・今川氏の人質として過ごし、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)で織田信長(おだのぶなが)が今川義元(いまがわよしもと)を討つと岡崎に戻り、織田信長と同盟を結んで勢力を拡大しました。安土桃山時代の1582年(天正10年)の本能寺の変(ほんのうじのへん)で織田信長が自刀するとは関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)と対立するが、その後和睦して豊臣秀吉の天下統一に協力し、豊臣政権の五大老筆頭になりました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなり、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)で西軍に勝利し、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍になりました。1605年(慶長10年)に徳川秀忠に将軍職を譲って大御所になり、1615年(慶長20年)に大坂の陣で豊臣氏を滅亡させました。なお徳川家康は1616年(元和2年)6月1日になくなりました。
●清凉寺大方丈の前庭は小堀遠州(こぼりえんしゅう)が作庭したとも言われる枯山水の平庭です。
小堀遠州(小堀政一(こぼりまさかず))は安土桃山時代の1579年(天正7年)に備中国松山藩初代藩主・小堀正次(こぼりまさつぐ)と近江国佐和山城主・磯野員昌(いそのかずまさ)の娘の長男として生まれました。1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の異父弟・豊臣秀長(とよとみひでなが)が郡山城に移封されると家老となった父とともに郡山に移りました。その後1591年(天正19年)に豊臣秀長、1595年(文禄4年)に豊臣秀長の婿養子・豊臣秀保(とよとみひでやす)が亡くなり、1595年(文禄4年)に豊臣秀吉の直参になって伏見に移り、千利休(せんのりきゅう)とともに茶の湯を大成した茶人で、大名・古田織部(ふるたおりべ)に茶道を学んで第一の弟子と称されました。また公卿・歌人で、上冷泉家9代当主・冷泉為満(れいぜいためみつ)に歌道も学びました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に仕え、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)の功によって父・小堀正次が備中松山城を賜りました。その後作事奉行として建築・造園に才能を発揮し、二条城・仙洞御所などを手掛けたました。また江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の茶道師範にもなりました。1619年(元和5年)に近江小室藩に移封され、1624年(元和9年)に伏見奉行になり、1647年(正保4年)に伏見奉行屋敷で亡くなりました。
清凉寺見どころ

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