清凉寺本堂・清凉寺見どころ

清凉寺本堂

●清凉寺本堂は京都府指定文化財です。
●清凉寺本堂は江戸時代前期の1637年(寛永14年)の嵯峨大火で焼失し、江戸時代中期の1701年(元禄14年)に江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)の生母・桂昌院(けいしょういん)の発願と大坂の豪商・住友吉左衛門(すみともきちざえもん)の援助によって再建されました。1694年(元禄7年)から再建が開始され、1701年(元禄14年)に上棟され、1703年(元禄16年)に鎮壇・遷仏供養が行われました。
桂昌院(お玉)は江戸時代前期の1627年(寛永4年)に京都西陣の八百屋・仁右衛門(にえもん)の次女として生まれたとも言われています。その後関白で、二条家17代当主・二条光平(にじょうみつひら)の家司(けいし)・本庄宗正(ほんじょうむねまさ)の養女になったと言われています。江戸幕府第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の側室・六条有純(ろくじょうありずみ)の娘・永光院(えいこういん・お万の方)のゆかりで江戸に下り、1639年(寛永16年)に部屋子として永光院(お万の方)に仕え、その後春日局(かすがのつぼね)の目にとまり、局の指導を受けました。将軍付きの御中臈(おちゅうろう)になり、徳川家光に見初められて側室になり、1646年(正保3年)1月に江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)を生みました。ちなみに桂昌院は京都西陣の八百屋の娘から徳川家光の側室になり、徳川綱吉を生んだことから「玉の輿(たまのこし)」の由来になったとも言われています。1651年(慶安4年)に徳川家光が亡くなると落飾して筑波山知足院(ちそくいん)に入り、1680年(延宝8年)に江戸幕府第4代将軍・徳川家綱(とくがわいえつな)が亡くなり、子・徳川綱吉が江戸幕府第5代将軍になると江戸城三の丸に入りました。1684年(貞享元年)に従三位なり、1702年(元禄15年)に女性最高位の従一位になり、名前・藤原光子(藤原宗子)を賜りました。桂昌院は深く仏教に帰依(きえ)し、寺院を建立したり、寄進したりしました。また生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)の起因になったとも言われています。なお桂昌院は1705年(宝永2年)8月11日に79歳で亡くなりました。
住友吉左衛門は住友財閥の創業家・住友家が3代目から代々襲名した名前です。江戸時代中期は3代目・住友友信(すみともとものぶ)、4代目・住友友芳(すみともともよし)などの時代に当たります。3代目・住友友信は幕府御用の銅山師として岡山県の吉岡銅山(よしおかどうざん)・秋田県の阿仁銅山(あにどうざん)などの経営に乗り出し、日本一の銅鉱業者に発展させました。4代目・住友友芳は愛媛県の別子銅山(べっしどうざん)を開発し、住友家の中興の祖とされています。
一般的に本堂は本尊仏を安置する仏堂です。本堂は金堂・根本中堂(中堂)・仏殿などとも言われています。飛鳥時代から平安時代前半に創建された寺院では金堂と言われ、禅宗では仏殿と言われるとこが多いそうです。
●清凉寺本堂は桁行七間・梁間七間で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
清凉寺見どころ

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