清凉寺多宝塔・清凉寺見所(修学旅行・観光)

清凉寺多宝塔

●清凉寺多宝塔は京都府指定文化財です。
●清凉寺多宝塔は江戸時代中期の1700年(元禄13年)に江戸・護国寺(ごこくじ)で釈迦如来像の出開帳(でがいちょう)を行った際、寄進されて江戸で建立され、1703年(元禄16年)に船で部材が運ばれて清凉寺で建立されました。多宝塔は尾垂木(おだるき)を竜頭(りゅうず)にした江戸風になっています。なお多宝塔には多宝如来(たほうにょらい)が安置されています。
一般的に多宝塔は日本で上層を円形、下層を方形とした二重塔を言います。多宝塔は平安時代に密教が天台宗(てんだいしゅう)の宗祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)や真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)によって伝えられ、多宝塔も建立されるようになったとも言われています。鎌倉時代初頭に建立された滋賀県大津市の石山寺(いしやまでら)の多宝塔が現存最古の例です。多宝塔は元々東方の宝浄国(ほうじょうこく)の教主・多宝如来(たほうにょらい)を安置する堂塔です。多宝塔はお釈迦様が「法華経(ほけきょう)」を説いた際、空中に七宝の塔が現われ、塔中の多宝如来がお釈迦様に讚嘆して半座を空け、二如来が並座したと言われることに由来しています。
護国寺は江戸時代中期の1681年(天和元年)に江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)が生母・桂昌院(けいしょういん)の発願により、群馬上野国・碓氷八幡宮(うすいはちまんぐう)の別当寺・大聖護国寺(だいしょうごこくじ)の僧・亮賢僧正(りょうけんそうじょう)を開山として、桂昌院の念持仏・天然琥珀如意輪観世音菩薩像(絶対秘仏)を本尊に祀り、神齢山悉地院護国寺(しんれいざんしっちいんごこくじ)と称したのが始まりです。護国寺は寺領300石を賜り、1681年(天和2年)に堂宇が完成し、1694年(元禄7年)に300石が加増され、1697年(元禄10年)に観音堂(重要文化財)が建立されました。1707年(宝永4年)に護国寺3世・快意僧正(かいいそうじょう)が神田橋の護持院(ごじいん)の住職になったが、1717年(享保2年)に護持院が焼失し、その後幕命によって護持院を合寺し、観音堂を護国寺、本坊を護持院として、護持院の住職が護国寺の住職を兼ねました。
●清凉寺多宝塔は下層が方三間の本瓦葺(ほんがわらぶき)、上層は本瓦型銅瓦葺(どうわらぶき)です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。なお765年(天平宝字9年・天平神護元年)に奈良・西大寺(さいだいじ)で銅板葺が用いられたのが最古の記録とも言われています。
清凉寺見どころ

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