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千本ゑんま堂十重石塔・千本ゑんま堂見所(修学旅行・観光)
千本ゑんま堂十重石塔
●千本ゑんま堂十重石塔は1952年(昭和27年)11月22日に国の重要文化財に指定されました。
●千本ゑんま堂十重石塔は「至徳三年丙寅八月二十二日」の刻銘があり、南北朝時代の1386年(元中3年・至徳3年)に建立されたと言われています。十重石塔は「源氏物語(げんじものがたり)」の作者である紫式部(むらさきしきぶ)の供養塔とされています。
一般的に塔婆は仏教の祖・お釈迦さまの遺骨(仏舎利(ぶしゃり))を納める仏塔です。仏塔は紀元前3世紀頃から造られるようになった仏舎利を祀る饅頭形(半球形)のストゥーパが起源とも言われています。ストゥーパはインド(天竺(てんじく))から中国に伝えられると高層の楼閣建築形式になり、朝鮮半島から日本に伝わったと言われています。また塔婆は供養・報恩などの為に建立する塔です。ちなみに塔婆は卒塔婆(そとうば)などとも言われています。
紫式部は生没年未詳です。紫式部は平安時代中期の970年(天禄元年)~978年(天元元年)に生まれ、1019年(寛仁3年)まで存命していたとも言われています。ちなみに紫式部は本名も不明です。父が藤原北家良門流の藤原為時(ふじわらのためとき)、母が藤原為信(ふじわらのためのぶ)の娘(むすめ)と言われています。幼少期に母が亡くなり、幼少から学者・漢詩人の父・藤原為時のもとで漢文を読んで才女と言われました。996年(長徳2年)に越前守になった父・藤原為時とともに越前国に下向したが、998年(長徳4年)に単身京都に戻り、間もなく遠縁で、数人の妻と子供がいる親子ほど年の離れた山城守・藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結婚し、999年(長保元年)に一女・大弐三位(だいにのさんみ・藤原賢子(ふじわらのけんし))を産んだが、1001年(長保3年)に夫・藤原宣孝が急死しました。その後寡婦としての生活を送り、この頃から「源氏物語」の執筆が始まったとも言われています。1005年(寛弘2年)頃に藤原道長(ふじわらのみちなが)の長女で、第66代・一条天皇(いちじょうてんのう)の中宮・藤原彰子(ふじわらのしょうし・上東門院(じょうとうもんいん))の女房(にょうぼう)として出仕し、藤原彰子に白居易(はくきょい)の詩文集「白氏文集(はくしもんじゅう)」を講義したりしました。「紫式部日記」には1008年(寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月までの藤原彰子や宮中の様子が記されています。「紫式部日記」には「源氏物語」を読んだ第66代・一条天皇から「日本紀(日本書紀)」をよく読んでいると賞賛されたことや同僚から「日本紀の御局(おつぼね)」というあだ名を付けられたことなども記されています。1011年(寛弘8年)に第66代・一条天皇が崩御し、その後も藤原彰子の傍にいたが、1014年(長和3年)春頃に亡くなったとも言われています。なお紫式部は中古三十六歌仙・女房三十六歌仙に選ばれ、「小倉百人一首」に「めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」が収められています。
千本ゑんま堂