泉涌寺仏殿・泉涌寺見どころ(修学旅行)

泉涌寺仏殿

●泉涌寺仏殿は1966年(昭和41年)6月11日に国の重要文化財に指定されました。
●泉涌寺仏殿は1668年(寛文8年)に江戸幕府4代将軍・徳川家綱(とくがわいえつな)が再建しました。大工は中井家三代目・中井正知が務めました。中井正知は承応(1652年~1655年)度・寛文(1661年~1673年)度・延宝(1673年~1681年)度・宝永(1704年~1711年)度の4度京都御所の内裏(だいり)を造営しました。
徳川家綱は1641年(寛永18年)9月7日に江戸幕府第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)と側室・お楽の方(宝樹院(ほうじゅいん))の間に長男として江戸城本丸で生まれました。幼名は竹千代(たけちよ)で、乳母は矢島局(やじまのつぼね)・三沢局(みさわのつぼね)でした。徳川家綱は生まれた時から徳川家光によって後継ぎに決められました。乳母・春日局(かすがのつぼね)に育てられた徳川家光は江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と母・江(ごう・崇源院(すうげんいん))に寵愛された弟・徳川忠長(とくがわただなが)と世継争いがあった為と言われています。徳川家綱は1645年(正保2年)に元服し、1651年(慶安4年)4月20日に徳川家光が亡くなると8月18日に10才で江戸城で将軍宣下を受け、江戸幕府第4代将軍に就任し、内大臣にも任じられました。徳川家綱は幼少将軍であったことから叔父の保科正之(ほしなまさゆき)や徳川家光の遺老とも言われる酒井忠勝(さかいただかつ)・松平信綱(まつだいらのぶつな)らに補佐され、治世29年間で幕府諸制度を整備しました。なお徳川家綱は質素倹約を重んじ、武芸学問を奨励し、武断政治から文治政治に政策を切り替えました。
一般的に仏殿は本尊仏を安置し、礼拝する堂塔です。仏殿は本堂・金堂・根本中堂(中堂)・仏堂などとも言われています。飛鳥時代から平安時代前半に創建された寺院では金堂と言われ、禅宗では仏殿と言われるとこが多いそうです。なお仏殿は禅宗寺院で、仏国土に至る三門(山門)・仏道修行に励む僧堂・僧侶が居住する庫裏(くり)・僧侶が仏教を講義する法堂(はっとう)・浴場である浴室・トイレである東司(とうす)とともに七堂伽藍に数えられています。
●泉涌寺仏殿には須弥壇に仏師・運慶(うんけい)作とも言われ、過去・現在・来世を表す釈迦如来像(現在)・阿弥陀如来像(過去)・弥勒如来像(来世)が安置されています。
運慶は平安時代後期の1150年(久安6年)頃に奈良市・興福寺(こうふくじ)を拠点に活動していた奈良仏師で、慶派の頭領・康慶(こうけい)の長男として生まれたと言われています。1176年(安元2年)の運慶最古の作とも言われる奈良市・円成寺(えんじょうじ)の大日如来像造像銘中に「大仏師康慶実弟子運慶」に記されています。1183年(寿永2年)に「法華経(ほっけきょう)」の書写を完成し、「運慶願経」とも言われています。興福寺・東大寺(とうだいじ)などの仏像を修理し、1180年(治承4年)の南都焼討(なんとやきうち)後に円派・院派とともに興福寺・東大寺の復興事業に加わり、数多くの仏像を造仏しました。1196年(建久7年)に東大寺大仏殿の虚空蔵菩薩像・持国天像に造仏し、1203年(建仁3年)に東大寺南大門の金剛力士像を快慶とともに造仏しました。運慶は天平彫刻の影響を受け、写実的な力強い作風で、鎌倉彫刻の第一人者とされています。なお運慶は1224年(貞応2年)1月3日に亡くなりました。
泉涌寺見どころ

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