泉涌寺大門・泉涌寺見どころ

泉涌寺大門

●泉涌寺大門は1966年(昭和41年)6月11日に国の重要文化財に指定されました。
●泉涌寺大門は慶長年間(1596年~1615年)の御所造営で南門として建てられ、寛永年間(1624年~1645年)に移して建立されました。泉涌寺大門は伽藍の最も高い位置に建立され、南宋の書家・張即之(ちょうそくし)筆とも言われている扁額「東山」が掛けられ、東山門とも言われています。
京都御所は794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇による平安京遷都の際、内裏に代わる臨時の里内裏・土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)でした。平安京遷都時の内裏は京都御所から西約1.7キロの千本通(平安京の朱雀大路)沿いにあったが、失火や政変による火災によって度々焼失し、鎌倉時代の1227年(安貞元年)の火災後に再建されることはありませんでした。その後南北朝時代に第96代・後醍醐天皇が京都を逃れ、光厳天皇が北朝初代天皇になると土御門東洞院殿が北朝の内裏に定着し、1392年(明徳3年)の南北朝の合一後に正式な御所になりました。室町時代に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が敷地を拡大し、安土桃山時代に織田信長(おだのぶなが)や関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が整備しました。しかしその後度々焼失し、その都度再建されたり、建て替えられたりし、江戸時代後期の1855年(安政2年)に現在の内裏が再建されました。
張即之は鎌倉時代初期に当たる1186年に和州 (中国安徽省) に寧宗朝の参知政事・張孝伯の子として生まれました。能書で天下に聞こえた伯父・張孝祥(ちょうこうしょう)の影響を受け、米ふつ (べいふつ) ・ちょ遂良 (ちょすいりょう) の筆法を学びました。1246年(寛元4年)に来日した建長寺(けんちょうじ)開山・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が張即之の書風をもたらし、日本からの入宋した禅僧が多くの筆跡をもたらしました。張即之は強い筆力による気迫に富む書風で、扁額などの大字に優れ、鎌倉時代以降の日本の書道に大きな影響を与えました。智積院の「金剛経(国宝)」・東福寺の「方丈」などの禅院額字12幅 (国宝)などが知られています。
●泉涌寺大門は四脚門で、切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。泉涌寺大門は墓股に唐獅子・龍・麒麟・獏などの霊獣の彫刻が施されています。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
泉涌寺見どころ

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