泉涌寺御座所・泉涌寺見どころ

泉涌寺御座所

●泉涌寺御座所は1882年(明治15年)に書院・庫裡とともに焼失し、1884年(明治17年)に第122代・明治天皇が京都御所内にある皇后宮の御里御殿(おさとごでん)を移して再建しました。御里御殿は江戸時代後期の1818年(文化15年)に造営されました。
第122代・明治天皇は江戸時代後期の1852年(嘉永5年)11月3日に第121代・孝明天皇と典侍・中山慶子(なかやまよしこ)の第2皇子として生まれました。1860年(万延元年)8月に皇太子になり、同年11月に親王宣下を受け、諱名(いみな)・睦仁(むつひと)を賜りました。1864年(元治元年)に長州藩による禁門の変(きんもんのへん)が起き、宮中に不審者が侵入すると一時卒倒し、長州藩に内通したとの嫌疑で外祖父で、権大納言・中山忠能(なかやまただやす)に蟄居になりました。1867年(慶応2年)に父・孝明天皇が崩御すると14歳で第122代・明治天皇になりました。同年朝廷は江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の大政奉還(たいせいほうかん)の上表に勅許を与え、薩摩藩・長州藩に討幕の密勅を下しました。その後王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)を発し、新政府樹立が宣言されました。1868年(慶応4年)に始まった戊辰戦争(ぼしんせんそう)で小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)に錦旗(きんき)と節刀(せっとう)を与えて征討大将軍に任命し、旧幕府勢力を鎮圧しました。1868年(明治元年)に五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)を発布し、新政府の基本方針を表明し、明治に改元して一世一元の制(いっせいいちげんのせい)を定めました。1869年(明治2年)に東京に遷都し、版籍奉還(はんせきほうかん)の上表を勅許し、1871年(明治4年)に廃藩置県(はいはんちけん)を断行しました。1882年(明治15年)に陸海軍を天皇の軍隊と規定して軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)を発し、1884年(明治17年)以降に立憲制・官僚制に対応する諸体系を整備し、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法を公布し、1890年(明治23年)に教育勅語(きょういくちょくご・教育ニ関スル勅語)を発しました。1894年(明治27年)からの日清戦争(にっしんせんそう)・1904年(明治37年)からの日露戦争(にちろせんそう)で直接戦争を指導しました。なお第122代・明治天皇は1912年(明治45年)7月30日に亡くなりました。
●泉涌寺御座所には玉座の間・皇族の間・勅使の間・侍従の間・女官の間・門跡の間があり、西側に車寄があります。玉座の間は天皇・皇后が訪れた際に休息所として使用されています。直近では1990年(平成2年)の即位報告・1994年(平成6年)の平安建都1200年記念・1999年(平成11年)の在位10年の報告・2019年(平成31年・令和元年)譲位の報告と即位報告で利用されました。泉涌寺御座所には第49代・光格天皇の遺品である桑製の机が置かれています。
第119代・光格天皇は江戸時代中期の1771年(明和8年)9月23日に閑院宮(かんいんのみや)第2代当主・閑院宮典仁親王(慶光天皇)と女房・大江磐代(おおえいわしろ)の第6皇子として生まれました。1779年(安永8年)12月15日に皇子のない危篤の第118代・後桃園天皇の養子となり、1780年(安永8年)1月1日に9歳で第119代・光格天皇に即位しました。中世以来に絶えた朝儀再興に力を入れ、幕府に働き掛けて古制の復活に努めました。石清水社(石清水八幡宮)と賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)の臨時祭を再開させました。また経学を好み、博学能文で知られ、作詩・管弦に長じ、父・閑院宮典仁親王と同じく歌道の達人でした。江戸幕府第11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)に内裏造営の功を賞し、五言古詩を贈りました。父・閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を宣下しようとしたが、江戸幕府に反対され、尊号一件(尊号事件)がその後の尊王思想に影響を与えました。ちなみに1884年(明治17年)に第122代・明治天皇が閑院宮典仁親王に慶光天皇の尊号を贈りました。1817年(文化14年)5月7日に第120代・仁孝天皇に譲位しました。なお第119代・光格天皇は1840年(天保11年)12月11日に崩御しました。
泉涌寺見どころ

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