泉涌寺海会堂・泉涌寺見どころ

泉涌寺海会堂

●泉涌寺海会堂は1873年(明治6年)3月に恭明宮(きょうめいぐう)を移して建立されました。泉涌寺海会堂には歴代天皇・皇后・親王らの念持仏30数体が安置されています。また本尊である阿弥陀如来坐像・俊じょう律師像や歴代先住代々宗師の位牌も安置されています。1868年(慶応4年)に神仏分離令(神仏判然令)が出され、1871年(明治4年)5月に宮中の神仏分離策として、京都御所の御黒戸(おくろど・御仏間)が搬出され、恭明宮が方広寺跡(現在の京都国立博物館)に造営されることとなったが、1873年(明治6年) 3月14日に廃止され、位牌は泉涌寺霊明殿 、 仏像・仏具は水薬師寺などに移されました。なお恭明宮は天皇や皇族の位牌や念持仏などを保管するだけでなく、京都に残った37名の宮中女官の隠居所としても造営されました。
京都御所は794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇による平安京遷都の際、内裏に代わる臨時の里内裏・土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)でした。平安京遷都時の内裏は京都御所から西約1.7キロの千本通(平安京の朱雀大路)沿いにあったが、失火や政変による火災によって度々焼失し、鎌倉時代の1227年(安貞元年)の火災後に再建されることはありませんでした。その後南北朝時代に第96代・後醍醐天皇が京都を逃れ、光厳天皇が北朝初代天皇になると土御門東洞院殿が北朝の内裏に定着し、1392年(明徳3年)の南北朝の合一後に正式な御所になりました。室町時代に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が敷地を拡大し、安土桃山時代に織田信長(おだのぶなが)や関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が整備しました。しかしその後度々焼失し、その都度再建されたり、建て替えられたりし、江戸時代後期の1855年(安政2年)に現在の内裏が再建されました。
●泉涌寺海会堂は宝形造(ほうぎょうづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。泉涌寺海会堂は土蔵造(どぞうづくり)の塗龍(ぬりごめ)です。
宝形造は隅棟(すみむね)が屋根の中央に集まり、屋根の頂部に水平の棟を作らない屋根形式です。ちなみに宝形造は寄棟造(よせむねづくり)のように雨が四方に流れ落ちます。宝形造の名称は露盤(ろばん)・伏鉢(ふくばち)・宝珠(ほうじゅ))の総称を宝形と言うことに由来しています。なお宝形造は方形造とも言われています。屋根が六角形の場合に六注、八角形の場合に八注と言われています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
土蔵造では柱などの木部の外側を土壁で覆い、白土または漆喰(しつくい)で上塗りした建築法です。土蔵造は耐火構造で、江戸時代に火災が多かった江戸や大坂の町屋で奨励され、江戸時代前期の1657年(明暦3年)の明暦の大火(めいれきのたいか)後に御触書(おふれがき)が出されました。明暦の大火は3日間に及び、江戸城の天守など市街地の大半を焼失させ、江戸時代最大の火災とも言われています。
泉涌寺見どころ

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