泉涌寺舎利殿・泉涌寺見どころ

泉涌寺舎利殿

●泉涌寺舎利殿は桃山時代・江戸時代初期の慶長年間(1596年~1615年)に京都御所に造営された建物を移して建立され、その後現在の場所に移されたと言われています。
京都御所は794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇による平安京遷都の際、内裏に代わる臨時の里内裏・土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)でした。平安京遷都時の内裏は京都御所から西約1.7キロの千本通(平安京の朱雀大路)沿いにあったが、失火や政変による火災によって度々焼失し、鎌倉時代の1227年(安貞元年)の火災後に再建されることはありませんでした。その後南北朝時代に第96代・後醍醐天皇が京都を逃れ、光厳天皇が北朝初代天皇になると土御門東洞院殿が北朝の内裏に定着し、1392年(明徳3年)の南北朝の合一後に正式な御所になりました。
●泉涌寺舎利殿には泉涌寺開山である月輪大師(がちりんだいし)・俊じょう(しゅんじょう)が熱願し、鎌倉時代の1228年(安貞2年)にその弟子・湛海律師(たんかいりっし)が南宋(中国)から請来した仏牙舎利(ぶつげしゃり)が祀られています。
湛海律師は奈良で戒律を学び、泉涌寺の実質的な開山である月輪大師(がちりんだいし)・俊じょう(しゅんじょう)を師事しました。1237年(嘉禎3年)に南宋(中国)に渡り、1244年(寛元2年)から秦山・白蓮寺(びゃくれんじ)に学びました。白蓮寺に祀られていた仏舎利を拝して日本に請来を願ったが、叶わなかったことから経論数千巻・楊貴妃観音などとともに帰国しました。数年後に再度南宋(中国)に渡って白蓮寺に入り、荒廃していた白蓮寺を日本から材木を取寄せて復興し、その功によって仏舎利を与えられ、1255年(建長7年)に泉涌寺に持ち帰ったと言われています。
お釈迦さま(釈迦牟尼 ゴータマ・シッダッタ)は仏教の開祖で、世界四聖の一人です。ちなみに仏陀とは悟った者・目覚めた者を意味するお釈迦様の尊称です。お釈迦さまは約2,500年前の旧暦の4月8日、インド国境に近いネパールのルンビニーの花園で、父・シャカ族の国王である浄飯王(じょうばんのう・シュッドーダナ)と母・摩耶夫人(まやふじん・マーヤー)との間に生まれました。お釈迦さまは生まれてすぐに7歩歩き、右手で天、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と唱えたとも言われています。29歳で出家し、35歳の旧暦の12月8日の夜明け前、明星出現と同時にブッダガヤの菩提樹の下で、悪魔の誘惑に負けずに悟りを開きました。その後約45年間に渡り、インド各地を回って教えを説き、クシナーラで亡くなりました。お釈迦さまの遺骸は火葬され、遺骨は各地のストゥーパに分けて祀られたそうです。
●泉涌寺舎利殿には天井に絵師・狩野山雪(かのうさんせつ)が描いた蟠龍図・鳴龍があります。
狩野山雪は安土桃山時代の1590年(天正18年)に千賀道元の子として肥前国(長崎県)に生まれました。1605年(慶長10年)に父・千賀道元と死別し、叔父の僧の世話で大坂に住んでいた狩野永徳(かのうえいとく)の門人・狩野山楽(かのうさんらく)の弟子になりました。その後師・狩野山楽に画才と人柄を見込まれ、狩野山楽の娘・竹の婿になり、跡を継いで狩野氏を名乗りました。義父・狩野山楽とともに1629年(寛永6年)頃に当麻寺縁起絵巻(熨斗家蔵)の制作に加わり、1631年(寛永8年)に建立された妙心寺の塔頭・天球院の障壁画を制作しました。1647年(正保4年)に関白・九条幸家(くじょうゆきいえ)の命により、東福寺所蔵の明兆(みんちょう)筆の三十三身観音像の内、欠けていた2幅を補作し、その功績によって法橋(ほっきょう)に叙せられました。1651年(慶安2年)に義弟・伊織の金銭トラブルに巻き込まれて揚屋(あがりや)に収容されたが、九条幸家ら九条家の尽力によって出獄することができました。しかし同年5月1日に心労が祟って亡くなりました。
泉涌寺見どころ

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