志明院の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

志明院

志明院の歴史を時代別年表にまとめ

志明院の歴史を簡単にまとめています。志明院は650年(白雉元年)に修験道の祖である役行者・役小角が不動明王の示験によって創建したと言われています。829年(天長6年)に弘法大師・空海が淳和天皇の勅願によって再興しました。(時代別年表・重要人物下記参照)

志明院(アクセス・歴史・・・)

【岩屋山(いわやさん)】

●岩屋山は標高約649メートルで、古くから山岳信仰の地で、修験道(しゅげんどう)の行場(ぎょうば)になっていたと言われています。修験道は日本古来の山岳信仰や山修行と外来の密教(仏教)などを融合して生まれました。岩屋山には山中に薬師岩・鏡岩・天狗岩・白竜岩・金掛岩・座禅石・飛岩・蛇穴・般若の滝・巌谷・岩山などがあり、八十八か所の行場もあります。鴨川(かもがわ)の源流の1つになっている岩屋川は滝行(たきぎょう)の行場になっています。真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が入山した際、岩屋山の守護神が飛竜になって滝壺に入ったとも言われています。

【志明院の起源・始まり】

●志明院は650年(白雉元年)に修験道の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)・役小角(えんのおづの)が不動明王(ふどうみょうおう)の示験によって創建したと言われています。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

●829年(天長6年)に真言宗の宗祖である弘法大師・空海が第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう)の勅願によって再興しました。弘法大師・空海は淳和天皇の勅願により、本尊・不動明王を自ら刻んだと言われています。不動明王は日本最古の不動明王像とも言われ、志明院は日本最古の不動明王顕現の地とも言われています。志明院の院名は淳和天皇から賜ったと言われています。なお弘法大師・空海は鳴神上人が龍神を閉じ込め、歌舞伎十八番「鳴神(なるかみ)」の舞台になっている鳴神の岩屋(護摩の岩屋)で護摩を焚いたと言われています。
●平安時代前期に菅原道真(すがわらのみちざね)が第59代・宇多天皇(うだてんおう)の勅願により、鴨川の源流の1つになっている洞窟内の根本中院(奥院)の本尊・眼力不動明王を自ら一刀三礼で刻んだと言われています。その後皇室の勅願所として崇敬され、天皇が即位した際に勅使が派遣されて諸堂が開扉され、宝祚延長・万民安穩が祈願されました。
●958年(天徳2年)に焼失したも言われています。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

●鎌倉時代以降に兵火によって焼失したも言われています。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】

●1349年(正平4年・貞和5年)に僧・雲暁が足利将軍家の帰依を受け、伽藍を再興したとも言われています。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

●室町時代に室町幕府・天皇から度々寄進を受けたと言われています。

【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の歴史・出来事】

●1522年(大永8年)に第105代・後奈良天皇(ごならてんのう)が天下静謐の為に諸堂開扉の詔を発し、勅願成就のお礼として、晨額「志明院」と晨筆「南無不動明王」を賜ったと言われています。
●1550年(天文19年)頃まで40数坊あり、大きな寺院だったと言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

●1831年(天保2年)に失火で山門を除く、多くの伽藍が焼失したが、本尊・不動明王は焼失を免れました。山門には小野道風(おののとうふう)筆の扁額「岩屋山」が掛けられ、仏師・運慶(うんけい)と子・湛慶(たんけい)が造仏した金剛力士(こんごうりきし)像が安置されています。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

●明治時代以降に主要な伽藍が再建されました。
●太平洋戦争後に真言宗系の単立寺院になり、現在は岩屋山不動教の本山になっています。
●太平洋戦争後に新聞記者だった作家・司馬遼太郎(しばりょうたろう)が宿坊に宿泊し、宮崎駿(みやざきはやお)との対談で不思議な体験を話し、アニメ「もののけ姫」の着想に繋がったとも言われています。

【志明院の開山である役行者(役小角)】

役行者(役小角)は634年(舒明天皇6年)に大角と白専女の子として大和国葛城上郡茅原で生まれたとも言われました。生誕地とされる場所には吉祥草寺が建立されています。650年(白雉元年)に山背国に志明院を創建したと言われています。翌651年(白雉2年)に元興寺で孔雀明王の呪法を学び、葛城山・熊野・大峰などで山岳修行を続け、吉野・金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、日本古来の山岳信仰・山修行・密教(仏教)などを融合させた修験道の基礎を築きました。しかし弟子・韓国連広足が役行者の能力を妬み、妖術を使って人を惑わしていると朝廷に讒訴し、699年(文武3年)に伊豆島に流罪になりました。701年(大宝元年)1月に大赦されて故郷に戻り、6月7日に大阪箕面・天上ヶ岳で亡くなったとも言われています。

【志明院の歴史 備考】
*参考・・・志明院(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)wikipedia

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